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翌朝、朝一に起きると、皆が目覚める前に雛子は玄関に出た。
髪はすこし先をくるんとさせ、白のざっくりニットにデニム、フードのついたショートジャケット、靴は悩んだ末にぺたんこパンプスを合わせて、くすみピンクのボリュームマフラーを首に巻いた。
そっとミケランジェロを入れた透明のキャットキャリーリュックを背負う。
「行って来ます」
ささやくように言ってドアを開け、静かにドアを閉めた。
碧樹の夢を信じたというわけではなかった。どこにも一人で出かけさせてくれない過保護な家族にいいかげん腹を立てていて、この機会にすこし冒険をして見ようと思っただけだ。
携帯を持たずにミケランジェロを連れて出れば、家出と思われかねないが、初めての自由に朝の冷たい風さえ爽やかに感じた。いつも乗らないバスに乗り、車窓の向こうに流れる風景がどこか現実めいていないのも不思議だった。異国にいるような緊張と、不安を心に秘めて、雛子は目的地のボタンを押した。
「たしかこの辺りだったと思うけど……」
スマホがないので地図を調べることができず、何人かの人に訊ねて場所を突き止めた。時間は八時五十分。
「碧樹くん……」
夢だったはずなのに、彼はいた。
九時に始まる図書館の入り口の前で本を読んでいた。彼は雛子の気配に目を上げて、少し驚いた顔をする。
「永見さん……だっけ?」
「はい。永見雛子です」
「この前はありがとう。チョコレート、美味しくいただいたよ」
「食べてくれたんですか!」
――よかったっ。
聖のように捨ててしまわれていたらと心配していたのだ。彼は図書館の前にある丸い時計に目をやってから、自分のベンチの横を叩いた。
「まだ、もう少し時間があるよ、永見さん」
「あの……雛子ってよんでください」
「じゃ、雛子さん」
「さんじゃなくて雛子。ずうずうしいですか」
彼は眼鏡の向こうで微笑する。
「そんなことないよ」
雛子はおずおずと隣に座る。
「私服も可愛いね」
「そ、そうですか?」
「ピンク、雛子の黒い瞳に合っている」
瞳を覗き込まれて雛子ははっとする。彼のブラウンの瞳に自分の顔が映り、瞳孔がわずかに開いたように見えた。雛子はその目に吸い込まれそうになり、碧樹の指が雛子の額に触れようとした。
「開館です」
しかし、その前に図書館のドアが開いた。立ち上がろうとした雛子の手を碧樹が掴む。
「天気もいいし、向こうに小さなイングリッシュガーデンがあるんだ。少し歩かない?」
雛子は舞い上がる心を隠して肯き、歩き出した碧樹を小走りに追いかけた。
「いつも、この図書館を利用されるんですか」
「いいや。初めてだよ」
「じゃ、すごい偶然ですね。わたしも初めて来たんです」
彼は頬を緩めて言った。
「すごい偶然だよ。またこんな風に会えるなんてな」
雛子は小首を傾げる。「また」というのが昨日のことではないように聞こえたからだ。しかも、「雛子」と呼ぶ彼の口ぶりは慣れたものに聞こえた。
「せっかく誘ったのに、花はなにも咲いてないんだね」
本来ならバラが咲いているのだろうが、寒々しい葉と茎が空っ風に吹かれているだけだった。
「二月だから仕方ないです」
「そう?」
碧樹が手をバラの木に翳し、それをそっと握った。トゲに血が出たかと思うと、彼が手のひらを開いた瞬間、黒バラが花弁を大きく広げて咲いていた。
「え?」
「手品だよ」
「手品」
そっとバラに触れると生花だ。驚愕し、雛子はバラと碧樹を見比べるが、彼はなにも言わない。
「いったい、どうやって?」
「種明かししたら面白くないだろ? それより、噴水があるんだ。水は出てないけど」
碧樹は当たり前のように雛子の手を握る。彼女はわずかに戸惑う。
「碧樹くん、もしかして、わたしのこと、知ってます?」
彼は一瞬、顔を強ばらせ、じっと雛子を見た。
「どうしてそう思う?」
「いえ……なんとなく、とてもフレンドリーだから」
碧樹は苦笑した。
「馴れ馴れしかった?」
「全然、そう意味じゃないです」
慌てて雛子は両手を振るって否定した。手を繋いでもらって嬉しい。自分からはなかなかできない。
「この半年、毎日、見つめていた人が目の前にいて――舞い上がってるんだ。嫌だったら、ごめん」
「え? 毎日って?」
「ずっと前から好きだったんだ。電車の窓からいつも見ていたんだ。それが、昨日その人から告白された。しかも、今日、『偶然』にもこんなところで再会して……機会を逃したくないって思った」
彼は謝罪するように告白した。雛子は好きだと言われたことに胸が高鳴り、目を伏せた彼の手を逆に取る。
「改めまして、わたし、永見雛子です。お付き合いしてくれないでしょうか」
「雛子。それは俺の言いたかった台詞」
彼は首の後ろを掻くと、眼鏡を外して雛子を見た。伊達だと分かったのは、眼鏡をかけていない彼の方が自然に感じたからだ。雛子は百八十センチはあるだろう、長身の彼を見上げた。
「雛子、付き合ってください」
彼は深々と頭をさげる。雛子も慌てて下げて、「お願いします!」と大きな声を出した。初めてのことで、こういう時、どうしたらいいのかさっぱりわからない。ただ、気持ちが伝わったらしく、彼はポケットから一粒のダイヤモンドのネックレスを取り出すと雛子の首に垂らした。
「これ――本物じゃないですよね?」
「どうだったっけ」
「わたしに? 誰かのじゃなくて? 今日会ったのは偶然なのに?」
「雛子にまた会った時のために夕べ買ったんだ」
雛子は訝りながらダイヤモンドの石に触れる。
「まるで、今日、ここで会うのを知っていたみたい……」
「……そうだったら?」
「そんなわけない。わたし、ここに来るのを決めたの夕べだし」
碧樹が微笑み、彼女が背負っていた化け物に声をかけた。
「よ、ミケランジェロ。元気か?」
「え⁈」
雛子は仰け反り、驚いた。その瞬間、碧樹の人差し指と中指が彼女の額の真ん中を押した。
「あっ……」
吐息のような声を上げたと同時に、痛みが走る。激痛に割れそうな頭を抱え雛子は座り込んだ。いったいどうしたことだろうか。助けを求めて、碧樹のズボンを掴む。
「雛子?」
「痛い……痛い」
「雛子?」
慌てて碧樹が人を呼ぶ声がした。
「良平! いるか、良平!」
「は、はい。大祇司さま!」
いつも、碧樹と一緒にいる丸顔の男が走り寄ってきた。しかし、彼がたどりつく前に雛子の意識はあっという間に遠のいて行った。
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