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「大丈夫でしょうか。救急車を呼んだ方がいいんじゃないですか]
良平がおろおろと倒れた雛子の周りを行ったり来たりしている。
「心配ない。花印を施そうとして少し手元が狂っただけだ」
「花印? あの既婚者が額にその印をつけるという?」
「ああ。もちろん、その花印だ」
「ああって! 『夫婦』の印ですよ、まだ結婚してないじゃないですか。だから体が拒否してこんなことになるんです!」
良平は「ああ! こんなことが知れたら、僕がどやされる!」と頭を掻きむしる。もし長男、郁人に知られたら逆さづりにされてご神木に吊されてしまうのは目に見えている。なぜなら、郁人は碧樹より下位であるので、大祇司を罰することができないので、代わりに付き人の良平が罰を受けなければならないのだ。もし少しでも碧樹に優しさがあったのなら、良平を庇ってやるものだが、彼は立場上、だれにも肩入れしないことにしているので、良平を助けはない。
「なんてことしたんですか。また会う機会はあるかもしれないのに」
「これで完全に『縁』を復活させた」
「霊力がなければ花印は視えませんが、逆に言えば、霊力がある人間には視えるんです。雛子さまはあの、聖と暮らしているんですよ」
「だから、視えないように頭の奥につけた」
良平は雛子の額を覗き込む。
「本当だ……視えない……なんで……」
「俺の霊力を馬鹿にするなよ。聖なんかに負けやしない」
「さすが、大祇司さま。花印プラス先ほどさし上げた護身の術を施したダイヤモンドのネックレスで『縁』を完璧にするというわけですね?」
「そういうことだ」
良平は少し落ち着いた。そしてのそのそと猫用のキャリーバッグから出て来て、心配そうに雛子に寄り添う化け物を見て顔を引きつらせる。
「これはなんですか」
「これか? これはミケランジェロっていう雛子のペットだ」
「ペット? 見るからにモノじゃないですか」
モノ、つまり妖怪の類いの化け物のことだ。良平は触らずによくよく観察する。
「見た目がかなり気持ち悪いですね。モノにももっと可愛いのがいるのに……なんていう種類ですか。見たことないですけど」
「なんという化け物かは知らない。俺と出会う前に雛子が本殿の前で見つけたらしい」
碧樹がシニカルに笑う。
「帰ったら妖怪図鑑でも開いてみたらいいんじゃないか」
良平はむっとした顔を隠さずに言う。
「こんな気持ちの悪い棘皮動物みたなものをよく雛子さまはペットにできますね。知ってます? なまこって漢字で書くと『海鼠』って書くんです」
「気持ち悪いって言うな。ミケランジェロは御殿人だからな」
「御殿人? これ、御殿に住んでいたんですか」
「ああ。いつも雛子と一緒に寝ていた」
北門大社には、上から御殿人、中つ人、表人の三階級ある。御殿人は北門家の血縁者とその養子たち。中つ人は御殿人に仕えたり、儀式を取り持ったりする人々。表人は北門大社の表の顔である『普通の』神社のふりをするために交通安全祈願をしたり、お札を売ったりするのを仕事としている人たちだ。上から霊力の差がある。
「よく先代の大祇司さまはお許しになりましたね」
「あの頃は、甘ちゃんの崇道がのさばっていたからな。雛子が飼いたいと言ったら、見た目を三毛猫に変えたんだ。だから名前もミケ猫からミケランジェロになった」
「なるほど……」
碧樹が北門大社の鳥居を潜ったのは、八歳の時。中つ人として迎え入れられ、行儀作法には厳しくされたが、三食はしっかり食べさせてもらったし、学校にも行かせてもらった。なにより叩かれなくなった。
『碧樹、遊ぼ!』
『雛子!』
二人の間に明確な身分の差があったが、子供のことだ。どろんこになるまで一緒に遊んだ。
『いい気になるなよ』
ただ一人、雛子と仲のいい碧樹に敵対心を持ったのは、命を助けてくれた崇道だった。後に知ったが、彼こそが雛子の婿として北門家の養子となり、先代から大いに期待されていたのだった。子供同士が仲良いのをいいのを崇道が大人げなく牽制するとは、今思えば滑稽だ。いろいろあって彼の座を奪う形になったので、恩義はあっても碧樹は未だに崇道とは心の底で打ち解けていない。
「碧樹くん?」
雛子が目を覚ます。
「大丈夫?」
「う、うん……。わたしってばどうしたんだろう」
碧樹は起き上がるのを助ける。
「頭が痛いって倒れたんだ……」
「うーん」
良平が水を差しだした。
「ありがとうございます」
雛子は水を飲むと、ゆっくりと立ち上がる。
「頭は痛くないか」
「なんか額が熱いけど、痛くはないです」
「よかった」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや……」
「なんか……具合が悪いみたい。やっぱりそろそろ帰ります」
「うん……また会おう」
もう別れるのは残念だが、長く引き止めれば、聖に見つかる危険が高くなる。このあたりが今日は潮時だと碧樹は自分に言い聞かせて同意した。
「碧樹くん、今日はありがとう。倒れたりして驚かせてごめんね」
「いや、そんなことないよ。家でよく寝て」
しかし、碧樹が雛子と両手を重ねて別れを告げようとしたとき、後ろから良平が猛然と抗議した。
「もう帰ってしまうんですか!」
彼は碧樹は彼を押しのけて雛子の前に立つ。
「うん、ごめんなさい」
「ええっと?」
「良平です、良平」
彼は自分を指さしながら言う。
「良平くんも今日はありがとうございます」
良平は明らかにがっかりしていた。碧樹の付き人して長く、二人を取り持とうとお節介にもダイヤのネックレスを買うアイデアを出したりしてくれていたからだ。それでも、この感動の別れシーンに割って入るのは許せない。碧樹は彼を押しのけた。
「雛子、また会える?」
「もちろん」
「会いに行くよ」
「電車で?」
「夢で」
昨日はヘマをして聖に気づかれそうになったが、縁を結んだ限り、簡単に雛子の夢に侵入できる。これからは自由に行き来させてもらうつもりだ。
「じゃ、バス停まで送る」
「ありがとう」
良平はこのまま雛子を連れて帰りたいと思っているようだが、兄たちの意向を聞かなければならない。雛子を連れて帰れば、必ず聖一派と全面戦争となる。その準備をする必要があった。
「じゃ、またね、碧樹くん」
「また会おう」
バスに乗る雛子を見送るのは、針を胸に刺すような痛みで苦しい。だが、一旦、手を離さなければならなかった。「縁は結んだ。心配するな」と碧樹は自分に言い聞かせた。
「大丈夫でしょうか」
良平が角を曲がろうとしているバスを見つめて言った。碧樹は答えなかった。
「さ、帰ろう。兄貴たちと話さないとならない」
碧樹は荷物を掴むと歩き出す。顎を引いて歯を食いしばり、決意を口にする。
「もう黙っていない。俺の花嫁を取り返す時が来たんだ」
青い空はアスファルトの地面に続いていた。
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