赤と黒、そして緑

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第22章 再び先祖の地へ  それから数年して、僕はふらっと土手村に足を向けた。あれから何年も経っているのに、郡山からの鉄道は相変わらずで、未だ電化されていない車両が走っていた。車窓から見える変わらぬ風景は僕に安堵をくれた。目的の駅に下車すると、予想通り駅前にはタクシーが止まっていなかったので、少し遠いと思いながらも歩いて目的地へ向かうことにした。目的地とは勿論、かつて僕が住んでいた家である。歩いてだと40分くらい掛かるだろうか。しかし、懐かしい風景に囲まれ、顔見知りの人に出会いながら歩めば、あっという間だろうと思った。  少し歩くと、すぐに見覚えのある家が現れた。あの家には秋になると柿の実がたわわになって、いつだったか、それを羨ましそうに眺めていたところ、家人が袋一杯にその柿の実を分けてくれたことがあった。しかし今はもうずっと前から誰も住んでいないように、庭には背丈に近い雑草が生い茂っていて、そこから柿の木の頭がちょこんと覗いていた。引っ越したのだろうか。それとも家人が亡くなって、無人になったのだろうか。あの時でもあの家の夫婦は80近くに見えた。亡くなったとしても不思議ではない。 しかしそこから先へ進むと、辺りの違和感は増々強くなって行った。どの家も固く門が閉ざされて、庭は手入れが全くされていないように雑草が伸び放題だった。つまり、ずっと人が住んでいないとしか思えなかったのである。まるで住民が丸ごとどこかへ転居したような感じだった。僕は急に不安になった。柊さんや兄は、どうなったのだろうと思ったからだ。 やがて村役場の前に到達すると、僕は茫然とした。入口は封鎖され、廃墟と化していた。そこから僕の足は速まった。1秒でも早く僕が住んでいたあの家、僕がいなくなった後は兄が住んでいるであろうあの家を確認したくなったのだ。 (あ……) 僕はどれだけ心配し、そして不安に襲われただろう。そこまでの数十分が何時間にも思えたほどだった。しかし遠くに懐かしいその家が見えた途端、僕は安堵に包まれた。 (兄貴だ!) 兄がいた。兄は庭で何かをしていた。そして遥か遠くにいる僕を見つけて、こちらに向かって大きく手を振った。それから兄は柊さんを家の中から呼び出して、僕が到着するのを二人で迎えてくれた。僕は第一声を迷った。久しぶり。ただいま。色々と思い悩んだ。すると柊さんがお帰りなさいと言ったので、自然と、ただいまと口から出た。いや、帰って来たわけではないのだ。そう思ったが、それは口にしなかった。 「遠くからいらして疲れたでしょう。さ、上がってください」  柊さんがそう言うと、兄も取り敢えず上がってくれと言った。僕は二人の笑顔に、それに従った。そして玄関に入った瞬間、手ぶらで来たことを思い出した。 「兄さん、ここはどうなってしまったの?」 「何が?」 「駅からここへ来るまで、人っ子一人いなかったから」 「そうか」 「うん。それに役場も閉鎖されていたし、みんなここを立ち退いて、どこかへ引越したの?」 「お前も知っているあの選挙で、村長が当選しなかったろう。それで大規模な事業が推進出来なかったよな。すると生活が苦しくなった村民が、ここを出て行ってしまったんだよ」 「でも議長の政策があったじゃない」 「あんなものは何の役にも立たないさ」 「どうして?」 「そもそも商人でもない輩が自分達の手で事業を起こすなんて、明治維新になって武士が商売を始めたのと同じように、無茶な話だったんだよ。それで夜逃げ同然に村民は出て行ってしまったんだ。大勢の人がいなくなったので、役場も存続出来ず、廃墟になってしまったんだよ」 「そうなんだ」 「俺達は議長の遺産を食いつぶして、ここに居座っているけどね」  と言うことは、兄は柊さんと一緒になったのだと思った。しかしそれは自然のことだと思った。 「ここを出たくないと、私が我儘を言ったの」  すると兄の横に座っていた柊さんがそう言った。 「毎日何をして暮らしているの?」 「何をするでもないよ。庭いじりをしたり、ちょっと離れたところにある家庭菜園を世話しているだけさ」 「食べ物は?」 「週に1度、遠くのスーパーに行って買い溜めしているよ」 「そうなんだ」 「今日は泊まって行くんだろ?」  僕は日帰りの予定でいた。それに夫婦となった二人の家に泊まるのは、気分的に落ち着かなかった。 「いいや、帰るよ。東京で明日の朝から予定があるから」  それで嘘をついた。 「そうか。じゃあ、夕飯まで引きとめられないな。でも今軽く何かを用意するから」  兄はそう言って柊さんに目配せをすると、彼女は立ち上がって台所に消えた。 「一杯くらいいいでしょう?」  そして台所で彼女の声がしたかと思うと、赤ワインのボトルとグラスを3つ抱えて戻って来た。僕は断る理由はないと思い、はいと答えた。彼女はグラスにワインを注いで一口を口にすると再び台所に消えた。 「お前の方はどうなんだ。今はどうしているんだ?」  柊さんがいなくなると、兄がそう尋ねて来た。しかし僕の頭の中は別のことで一杯だった。僕は兄にも黙って、この土地からいなくなったのだ。先ずはそれを詫びるべきだと思っていた。 「ごめん」 「え?」  しかし、兄はそんなことは気にしていないようだった。 「なんだ。俺に謝るような生活をしているのか?」 「そうじゃなくて」 「仕事はしていないんだろう? 親父の遺産があるからな」 「うん」  僕は話の流れが別の方に向いたので、それを断ち切って、この土地を去ったことをもう一度謝ろうと思った。それで話が止まった。するとそこへ柊さんがサラダとフランスパンを皿に載せて持って来た。それで話をするタイミングを失った。 彼女の出す料理は最高だった。こんな美味しいものを毎日食べられる兄は幸せだと思った。きっと愛情が込められているからだろう。やがてボトルを1本開けると、僕は帰りの列車の時間が気になり出した。3人とも飲んでしまったので、車で送ってもらうわけにはいかない。この酔い加減では歩いて駅までは1時間は掛かるだろう。 「泊まっていかれて構わないんですよ」  柊さんはそう言ってくれた。兄も引きとめてくれたが、僕はそれらを振り切って、すっかり日の落ちた外へ出た。 「そう言えば、お前がここを出て行った後、どれ位してからだったか、役場の箭内という職員が訪ねて来たんだよ」  玄関先まで見送りに出て来た兄がそう言った。 「箭内?」 「ああ。古い本を持って来た」 「何それ」 「村史」 「この村の歴史が書かれた本?」 「ああ。しかし、俺はそういうのに全く関心がないからからなあ。そのまま放置してあったけど、お前は好きだろう?」 「特に好きというわけではないけど、嫌いではないよ」 「じゃあ、持って行けよ」  そう言って兄は家の中に一旦入って、再び戻って来ると、1冊の本を手にしていた。僕が兄からそれを受け取ると、それはずっしりと重かった。一瞬、持って帰るのが面倒だと思ったが、いらないと言えば、兄はさっさと処分してしまうだろう。それは避けたかった。それで仕方なく、もらって行くよ、と言った。 「うちの先祖のことが詳しく載っていると言われたんだけど、目を通すのも面倒だしね」  僕は兄の話に笑って、それをカバンに収めた。 第23章 迷い道  辺りは街灯一つ、ついてなかった。僕は、スマートフォンのアプリをライトに使い、そこに住んでいた頃の土地勘で歩を進めた。少し歩いて後ろを振り返ると、柊さんと兄がまだ手を振っていて、家の明かりが彼らの姿を鮮明に映し出していた。こんな場所に彼らは二人きりで寂しくないのだろうか。ふと思った。だったら東京に出て来て、一緒に暮らしたらいい。いや、一緒はまずいか。それなら近くのマンションでも借りればいいんだ。それくらい、僕がなんとかする、と思った。でも彼らは幸せそうだった。実際、僕よりもずっと幸せなのかもしれない。それならこの土地を出ることなど不要なのかもしれない。 彼らの姿が見えなくなって暫く歩いた頃だった。その丘を越えれば駅舎が見える所まで来たはずが、いくら歩いても道が平坦のままで一向に丘に辿り着かなかった。 (あれ。道に迷った?) 思えば数年のブランクがあって訪れた場所だった。辺りの見た目が変わっていても不思議ではない。でも駅から兄の所へ向かう時は道に迷ったりはしなかった。そうなると、どこかの分かれ道で辺りが暗い為か、違う方へ進んでしまったのかもしれない。しかし、その場所がどこだったかわからないし、今更引き返してしまったら、予定の列車には乗り遅れてしまう。そう思ったら、とにかく見覚えがある場所に出るまで、このまま突き進んだ方が良いように思えた。するとやがて道が登り坂になった。 (なんだ。やっぱり間違っていなかったんだ)  きっと、周りの景色が変わったせいで、道を間違えたと勘違いしたのだろうと思った。坂は次第にきつくなった。すると今度は、こんなに急だったろうかと不安になった。でも、それは自分の体力が落ちたせいだろう。最近はめっきり家から出なくなり、横になってテレビを視たり、スマートフォンをいじったりするだけの生活を送っていた。それで、あまりにも暇だからと、仕事を始めようと思ったことがあったが、僅かのお金で人に使われるのは無理だと思った。それでは何か趣味を始めようと思ったが、どれも三日坊主になった。そこで三日坊主にならないように大学にでも通おうと思ったが、それこそ受験勉強など続けられるものではないし、入学試験がない通信制の大学に入学しても、やはり続かないと思った。そこで最後に思いついたのが、ここを訪れることだった。久しぶりに兄に会いたくなった。それから柊さんがどうしているのか、それが気になった。もしかしたら、それがきっかけで新しい生活、新しい人生が始まるかもしれないとも思った。実際彼らに会うと、兄は前よりもずっと活き活きとしていた。そして柊さんも兄と幸せそうに暮らしていた。ただ、僕の居場所はそこにはなかった。歓待はされたが、そこに僕の安らぐ時間はなかった。 今、僕はここへ来る前よりずっと孤独だった。一人暗い道を歩き、誰もいない我が家に一人で向かっているのだ。そして明日から、再び何の刺激もない生活が始まるのだ。生きているのか、死んでいるのか、それがわからないような時間が、まるで永遠に続くかのように、苦悩の中に身を投じることになるのだ。 (あ)  その時、突然目の前に見覚えがある景色が広がった。しかし、それは丘の下に広がる広大な田園風景ではなかった。勿論、そこには駅舎もない。そこはかつて一度だけ訪れたことがある先祖の墓域だった。 (え?)  やっぱり僕は道に迷っていた。そこは百坪はあるだろう空間に、背丈まで伸びた雑草が繁茂し、五輪塔が3基と頂部が三角形をした墓石がたくさん並んでいた。 「申し訳ありません。ご無沙汰しておりました」  僕は思わず口からそう出た。以前に比べてそこが余りに雑然としていたからである。 (あれ?)  しかしこの土地には兄が住んでいる。それに柊さんだっている。彼らは墓参りには来ていないのだろうか。雑草はいくら抜いても次から次へと生えて来るので、管理が追い付かないことはあるだろう。しかし、それにしても、もうずっと放置されていたとしか思えない程、そこは酷い有様だった。僕は申し訳ない気持ちで墓石の一つ一つをスマートフォンの明かりで照らしながら頭を下げた。  するとその中に見覚えのない墓石があった。他のものよりずっと小さかったので、前に来た時には気が付かなかったのだろう。そこには2列に戒名が彫られていたので、夫婦の墓である。しかし、誰のものだろう。見た目の新しさから、祖父母のものかもしれないと思った。そこで俗名を確認したいと思い、墓の側面に目をやった。そこには都築新太郎、妻サキという俗名と没年月日が刻まれていた。夫の方が明治28年、妻の方が明治19年に他界していた。祖父母の名前ではなかったが、一族の者であることに間違いはないし、それ程昔の人ではない。 (誰だろう?) そこでそれが誰の墓石なのかが気になった。その時、村史に名前があるかもしれないと思いつき、鞄の中から先程受け取ったものを取り出した。そしてそのカバーを引き抜くと、A4の紙を折ったものがするりと落ちた。何だろうと拾って見ると、それは箭内という職員が手書きした連絡票のようなものだった。そこにはこう書かれてあった。 「いつぞや領主様のお父様が私を訪ねて来られました。村史を見せてくれと言うのです。それでこの本をお見せ致しました。するとお父様は、自分が今日ここを訪れたことは村長を初め、誰にもしゃべってはいけないと言い残して帰られました。きっとこの本には何かあると思い、あなた様にこれを進呈するものです」 (あった!)  その本を頭からめくって行くと、明治時代のことが書かれた辺りに、都築新太郎という名前を見つけることが出来た。その人は最後の領主という肩書で載っていた。そして、そこには新太郎夫妻の写真も掲載されていた。 (え!)  僕はその写真を見て驚いた。新太郎は僕に似ていた。勿論、僕の先祖だから容姿が似ていても不思議ではない。ただ、そうは言っても、余りに似すぎていた。しかし、もっと驚いたことがあった。それはその妻が柊さんにそっくりだったのだ。まるで生き写しだった。目鼻立ちは勿論のこと、顏の輪郭、耳の形までそっくりだった。柊さんの顔立ちは似顔絵が描けるくらい、しっかりと記憶に残っている。しかも今さっきまで近い距離で直に顔を合わせていたのだ。だから見間違うことなどあり得ない。それなのに、どう考えても同一人物にしか思えないほど、両者は似通っていた。母娘? 姉妹? いや、もう本人同士なのだ。それから改めてその隣に写っている新太郎の方を見た。なんと、左頬の黒子の位置まで僕と同じだった。 僕は自分と柊さんにそっくりなその二人のことが知りたくなり、村史を読み進めた。するとそこには夫婦の維新後の様子が詳細に書かれてあった。それは余りに悲惨だった。家の財政は大きく傾き、妻のサキは女郎になって亡くなったとあった。僕の家は確かにこの土地の領主だったが、それが明治になり、知行地を失い、それまでの豊かな収入が絶たれたことで、路頭に迷ったのだ。それでサキにたいへんな苦労を掛けた。当時の旗本の娘達が家の財政難を救うために、こぞって女郎になったのと同じように、うちも女が身売りを強いられ、犠牲になったのだ。ただ、それで新太郎を初め、彼らの子供達は生き長らえることが出来たのだ。結果、子孫は続き、今の僕がいる。  しかし、夫である新太郎の方はどうだろうか。自分を含めた家族が生きるために身を売った妻を不憫に思い、それを助けられなかった、否、そのような境遇に家族を貶めてしまった自分をきっと蔑んだだろう。それが彼の未練になったに違いない。そして、その強い思いは、もう一度この世に生まれ変わって、再びサキと夫婦になり、そして今度こそ彼女を幸せにしようと思ったのではないだろうか。村史にあった、余りに僕と柊さんに似た新太郎とサキの写真から、僕はそんな妄想を抱いた。  その時、突然気配を感じて後ろを振り返ると、そこに柊さんと兄が立っていた。僕は心臓が飛び出さんばかりに驚いたが、どうして二人がここにいるのか、とは尋ねなかった。そして彼らのうちどちらかがしゃべり出すのを静かに待った。 「どんなに好きな人でも、一緒になれないことがあるでしょう?」  すると柊さんが落ち着いた声で語り始めた。 「好きだったら一緒になったらいいじゃないですか」 僕は柊さんが僕を選ばずに兄を選んだことを語っているのだと思って、そう反応した。しかし彼女は僕の発言を笑って聞き流した。 「それは二人が二人の人生を全うしたからなんですよ」 「え?」 「そちらに墓石があるでしょう?」  柊さんは新太郎とサキの墓標を指してそう言った。 「それは或る夫婦のお墓です。今は墓じまいだとか言って、気にも止めずに廃棄していますが、そのようなお墓は二人が人生を全うしたという証なんですよ」  僕は彼女に言われて、まじまじとその墓石を見た。 「ですから、二人がどんな人生を送ったとしても、仮に他人が不幸だというような結末だったとしても、二人が命を全うしたというのであれば、それでいいのです」 「この夫婦の結末をご存知なのですか?」  僕は気になって、そう尋ねてみた。 「知っているも何も、それは私達のお墓ではありませんか」 「え? 何を言っているんですか?」 「私と弘二さんのお墓だと言いました」 「それが柊さんと僕のお墓ですって?」 「だって、その夫婦の顛末を弘二さんはご存知でしょう? それはあなたが送った人生だから、知っていて当然なのです」  その時、僕は今まで手元にあった村史がなくなっていることに気が付いた。それで辺りを見回したり、鞄の中も探ってみたが、どうしても見つけることが出来なかった。まるで村史など元々なかったように、痕跡さえ残っていなかった。 「私は身を捧げてあなたのお役に立てたことが本当に嬉しかったのです。そしてあなたとの愛を全う出来たと満足したのです」  彼女は女郎屋に身売りした話をしているのだと思った。 「でも、あなたは私が身を沈めてしまったことを本当に悔いていました。そしてご自身をも蔑んでいました。それが未練になったのです。そしてその未練があなたを弘二さんとしてこの世に出現させ、私を柊の娘として呼び出したのです」  僕は彼女の話を固唾を飲んで聞き入っていた。 「私はあなたとの愛を全うしたので、最早あなたと一緒になることは出来ません。終わったのです。好きでも一緒になれないとは、このことなんです」  その時、彼女の瞳から一筋の涙がこぼれた。 「私は本当に幸せでした。だからあなたもどうか心を休めてください」 そして、最後に彼女がそう言うと、僕の目にも涙が溢れた。その涙に目の前の二人の姿が滲んだ。やがて二人の姿が溶けて、闇の中に吸い込まれて行った。後には僕一人になった。 それからどこをどう通って行き着いたのかは記憶がないが、僕は無事に東京に戻ることが出来た。そしてそれは後で知ったことだが、その村は昭和の終わりの頃には限界集落になり、平成の大合併の頃には廃村になっていたそうだ。また、それは別の時であったが、兄が社長をしていた会社の者だという人が訪ねて来て、兄が置きっぱなしにしていた私物を届けてくれたことがあった。その時兄が他界した経緯を初めて知ることになった。それは兄が社長を退陣させられ、僕に会う為に地元の駅に向かっている途中、緑ではなく、赤信号の横断歩道を渡り、左折して来た車にはねられたのだ。当時、住民票の住所と実際の居所とが一致しなかった僕には連絡がつかず、そのまま私物は放置されることになった。いや、実際にはそうではなく、兄が唯一心を許していた田宮課長がそれを個人的に預かってくれたのだ。田宮さんはそれからずっと僕を探していてくれたらしい。田宮さんが帰った後、兄の私物を開くとそこには真っ赤な袱紗があった。それを開けてみると、そこには村史にあった、あの新太郎とサキの写真が収められていた。 元号が平成から新しくなり、土手村にも開発の手が伸びた。しかしあの丘は手つかずに残った。無縁とはいっても、たくさんの墓石の始末に手を焼いたのだろう。しかしそれは僕にとって幸運なことだった。何か辛いことがあった時、僕はそこを訪れることが出来たからだ。そこを訪れると、あの不思議な体験が蘇った。村民と暮らした記憶は、もしかすると新太郎のものだったのかもしれない。自治会長を初め、村長や議長の顔が懐かしく思い出された。兄や柊さんと交わした言葉は今も鮮明に心に刻まれていた。そして、その村で経験したことは僕の生きる拠り所になっていた。 かつて人々は沖縄の清明祭のように、お彼岸には先祖の墓を訪れて、そこにゴサを敷き、家族で飲食をしていた時期があった。それがいつの頃からか、そのようなことをしなくなり、やがて墓にも近寄らなくなった。そして遂には墓を邪魔者扱いするようになり、墓じまいがブームのように巻き起こったのである。 しかしどうだろう。これから時が経ち、人々が何か心の支えを求めた時に、かつて確かに存在した先祖と、その証である墓のことを思うことはないのだろうか。そしてまるで宝探しのように、先祖が生き抜いた土地を訪れ、先祖の墓を見つけ出した時に、歓喜の声を上げることはないのだろうか。 
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