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第1章 相続
もしも人生の大事な場面で、赤か緑かを選ばなければならなくなったらどうするのか。赤は情熱の色。積極的に押し進めろということかもしれない。一方で炎の赤でもある。全てを焼き尽くしてしまうかもしれない。緑を選ぶとしたら若葉の色。目に優しく、生命を育む自然の色である。しかし自然は決して優しくはない。時には非情なまでに残酷であったりする。ただ、人生の選択の場面とはどのような時であろうか。暇を持て余し、カフェでコーヒーを飲んでいる時に向かいに座った女性が魅力的だった時か。しかも彼女は赤い服を着ているのだ。そしてその隣には緑の服を着た女性がこちらを見つめていたならどうだろうか。或いは父親がクリスマスプレゼントを買って来た時に、子供達が赤い大きな包みの方を選ぶのか、小さいけど重量感のある緑の包みを選ぶのか迷う時だろうか。
父が他界すると、兄と僕は都内の貸し会議室のようなところに呼び出されて、ある選択を強いられることになった。それは遺産として残された鍵の選択だった。1つは赤く、もう1つは緑の鍵だった。鍵自体には何の価値もないだろう。ありふれた素材で出来た、ありふれた造形だった。きっとこの鍵で開けることが出来るものの中に価値があるのだ。それは豪邸の権利書かもしれない。或いは札束かもしれない。
「兄さん、どっち?」
兄はさっきから一言も言葉を発せず、赤と緑の鍵を交互に見つめていた。
「迷うな」
そして僕にせつかれた為か、そう吐き出した。
(兄貴が選んでいいよ。僕は残った方でいいから)
僕は既にそう答えを決めていた。きっと遺産は兄弟に平等に分けられるようになっているのだろう。例えば、どこかに不動産を買ってあって、それに見合う額の預金も別途、用意してあるのだろうと思った。
(いや。家ではなく、イタリア製の高級車かもしれない)
兄は昨年郊外に家を買った。すると兄が家を選んでしまったら、2つの不動産のうち、1つが不要になってしまう。
(でも1つを売ったり、貸したりすればいいのか)
そう考えると別に兄が不動産を選んでも支障がないようにも思えた。
「まさか1つは借金だということはないよな?」
すると突然兄がそう言い出した。
「借金?」
「例えば1つは大豪邸の鍵で、もう1つは大金の借用証書が入っている貸金庫の鍵だとか」
「まさか」
しかし僕はそう言ったものの、父は時々思ってもみないような試練を僕達に課すことがあった。僕達が幼い頃、父が可愛いヒヨコを買って来たことがあった。僕が祭の夜店で強請ったが、どうしても買ってもらえなかったものだった。それで僕は狂喜した。ヒヨコは二羽いたので兄と僕は一羽ずつ分けた。兄は自分のヒヨコにピーと名付けた。僕はプーとした。兄と僕は自分のことを後回しにしてピーとプーの世話を焼いた。学校が終わると飛んで家に帰り、寝る時でさえ一緒だった。
或る日、学校から帰ると僕のプーが死んでいた。僕は号泣した。すると兄がもう一羽を一緒に育てようと言った。兄のヒヨコだったけど、僕にもピーの面倒を看る権利が与えられ、悲しみは少しずつ失せた。やがてピーは成鳥になった。ピーはずっと世話を焼いた兄と僕にはよく懐いていた。それが或る日、学校から帰るとピーの姿がいなくなっていた。逃げ出したのかと思ったが、僕達の管理責任を問われると思い、両親にはそのことを黙っていた。悲しくてもお腹は減る。兄と僕はその日の夕食をお腹一杯食べた。ピーが僕達の胃袋の中に消えたことを知ったのはそれから少ししてからだった。
「物事には全て陰と陽があるのだから」
それはその時父が僕達に言った言葉だ。もしかすると今回も父の言う陰と陽かもしれない。いや、きっとそうだ。そのことは兄も重々承知しているのだろう。それで鍵の選択にあれ程迷っているのだ。
「兄さん、二つの鍵を二人で共有するというのはどうかな?」
それで僕はそう提案してみた。
「遺言にはそれは許されないとあるよ。それに共有することは事実上不可能らしい」
「どうして?」
「この遺言書にそう書いてある。そしてそれは鍵を選べばすぐに納得出来るともあるよ」
僕は5枚にも渡る父の遺言書の最初の数行だけで読むのを止めてしまったが、兄は最後まで読み切るとそう言った。
「遺言書には赤は何の遺産で緑は何だ、という記載はないの?」
「なかった」
「じゃあ、勘を働かせるしかないね」
「お前はどっちがいい?」
「兄さんは?」
「お前が選んでいいよ」
「兄さんが選びなよ」
二人は積極的にどちらの鍵がいいとは言い出せなかった。
「じゃあ同時に鍵の上に手を被せようか。一、二の三で」
「うん」
そして最後はそんな兄の提案に従うことになった。もし二人が同じ鍵を選べば、また策を考えればいいのだ。
「じゃあいいね。一、二の三!」
僕は赤の鍵の上に手を被せた。兄は迷ったのか、或いは兄も赤を選んだのだろうか。一瞬遅れて緑の鍵の上に手を載せた。するとそれまでの経過を別室からモニターで覗いていた数名の男女がその部屋になだれ込んで来て、兄と僕は別々の車に乗せられると、そこから連れ去られた。
第2章 兄
俺の乗った車は、港区にある十階建ビルの地下駐車場に吸い込まれて行った。車の搭乗者は俺以外に男女一名ずつで、男の方がその車を運転していた。スポーツマンのような体格で、歳は40歳位。女の方は助手席に座り、30歳前後で、一見秘書のような風貌だった。
(どこに連れて行かれるのだ?)
エレベーターのドアが閉まり、女が最上階のボタンを押すと俺は観念した。仮に目的地が反社会的組織だったとしても、どうしようもないと思った。エレベーターが着いた先は、広くお洒落な空間が広がる場所で、正面奥には大きな金の枠に黒い文字で模られたロゴマークが見えた。
「改めまして、私は社長秘書の佐伯です」
勘が当たったと思った。エレベーターを降りてそのロゴマークの前まで案内されると、女がこちらを振り返り、深々とお辞儀をしながら俺に言った。女は綺麗な顔立ちをしていて、スタイルも良く、背は165センチ位。いや、実際には高めのヒールを履いていたので155位だろう。しゃべる時は顎が少し上がっていて、自分に自信があると暗に語っていた。
「私は営業部の富樫です」
続いて男の方もお辞儀をしながら名乗った。これから何が始まるというのだ。
「ではお入りください、社長」
(え?)
ロゴマークの脇の受付からコの字になった通路を抜け、電子ロックの掛かったドアを秘書が開けると、綺麗に机と椅子が並んだ、だだっ広いオフィスが現れた。そしてそこにスーツ姿の男女が大勢立ち並び、俺を待ち構えていた。
「今日からあなたがここの代表取締役社長です」
秘書が微笑んで俺に言った。
「俺が?」
「はい。緑を選んだ先代社長の長男である真一様が次の社長に就任したのです」
「ここの社員は何人位いるの?」
「ちょうど30名です」
「年商は?」
「昨年度実績で50億です」
「50億!」
「はい」
「この会社はどんな事業をしているの?」
「M&Aの仲介です」
「それって企業の合併や買収の仲介ということ?」
「はい」
俺はその時緑を選んでラッキーだったと思った。しかし同時に弟にはどんな遺産が行ったのか気になった。まさか外れ籤じゃないだろうなと思ったからだ。それはあの父親ならやりかねないことだった。
「赤い鍵はどんな遺産だったの?」
それで俺は秘書に尋ねた。
「それは伺っておりません。私どもは緑を選んだご子息を社長としてここへお連れするだけです。ただ、緑を選ばれたご子息がそう尋ねられた場合は、これをお渡して欲しいと、これを預かっています」
すると秘書はそう言って香典を入れる、いわゆる袱紗を俺に手渡した。それは真っ赤だった。
第3章 弟
僕が乗せられた車は高速道路に乗った。
「どこに向かっているのですか?」
「3時間位で着きます。トイレとか必要でしたら、サービスエリアに入りますから言ってください」
運転手は具体的な目的地を言わなかった。言いたくなかったのか、言えない理由があるのだろうか。それで僕はそれ以上聞く気にはなれなかった。運転手に話し掛けるのは安全の為良くないだろうと思うと、車の中で何をするでもなく、退屈になった。気の利いた音楽でも流してくれればまだ気が紛れただろうが、運転手にはそんな気はさらさらないようだ。僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
「着きました」
僕はその声に目を覚ますと、運転手が運転席に座ったままこちらを振り返っていた。
「ここはどこですか?」
「福島県の土手村という所です」
「土手村?」
「はい」
「何故そんなところへ?」
僕は車の中から周りを見渡した。辺りは細い道路が碁盤目のように交差し、入り組んでいた。その道路に挟まれて家が建っていたが一軒一軒はお城のような大きさで敷地も広かった。
「正面のあの家が弘二さんの所有になります」
「え?」
「遺言で赤を選んだ弘二さんにはあの家が譲られたのです」
「あの家が父の遺産?」
「はい」
僕は車を降りてその家に近寄った。すると運転手も僕の後を追い掛けて来た。その家もお城のような造形で敷地も異様に広かった。
「敷地は千坪あります。他に田畑もあったのですが、それはお父様が処分されました」
「この家をもらってもなあ」
僕はそう呟いた。それは正直な気持ちだった。
「遺言ですから」
「だって売れないでしょう。貸すにしても、こんな田舎じゃ無理でしょう。すると、もらってもどうしようもないし」
「いいえ、弘二さんにはここに住んでいただくのです」
「え!」
「東京のマンションは賃貸ですし、そこを引き払ってここに住んでいただくことになります。それがお父様の遺言です」
「ここに住めって言われても、仕事はどうするの? 東京まではとても通い切れないよ」
「お仕事は辞めてください。それに見合ったお金は定期的に口座に振込まれますので」
「そういうこと?」
「はい」
「でもここに住んで何をするの? そもそもここはどんな土地なの? ここは父や僕にどんな関係があるの?」
「それについては何も伺っておりません。私の任務は弘二さんをここへお連れして、この家を引渡すだけですから」
「じゃあ今日から僕はこの家で寝泊りをするんだね?」
「はい。東京の家の手続は私が全てしておきますのでご安心ください。こちらの電気、水道、ガスは既に通っています。後で食料品の買い出しなどに使う為の軽自動車を別の人間が運んで来ます」
「ここの最寄駅ってどこですか?」
「中通り駅です」
「聞いたことないなあ」
「そこから30分位で郡山駅に出られます」
「郡山は知っています」
僕が安心した顔をしていると、運転手は一礼をして、さっさと車に戻った。そして僕を一人残して車を発進させた。
(あ、ここの鍵をもらっていない!)
車が視界から消えると僕はそのことを思い出した。運転手が渡し忘れたのか、それとも家には鍵が掛かっていないのか。僕は鍵が掛かっていないことを期待して、玄関のドアノブを回してみた。しかし、それはびくともしなかった。青くなった。既に車は影も形もない。彼が気が付いて戻って来てくれないだろうか。
(あ、もしや)
その時僕はあの赤い鍵のことを思い出した。それを玄関の鍵穴に差し込んで回転させると、ガシャっと音がして鍵が開いた。
第4章 兄からの電話
「お前はどんな遺産をもらったの?」
僕が土手村に連れて来られた翌々日、スマートフォンに掛かった電話は兄からだった。
「俺は年商50億の会社をもらったよ」
「年商50億?」
「ああ」
「するとそこの社長になったっていうこと?」
「株式も51%所有しているし、筆頭株主でもある」
「すごいね」
「お前にもそれと同等の遺産が転がり込んだんだろ?」
「家だったよ」
「どんな?」
「お城みたいな家」
「ほう!」
「敷地は千坪」
「すごいじゃないか」
「ただ問題は場所なんだ」
「どこ? 田園調布?」
「ううん。もっと遠く」
「遠く?」
「うん」
「東京じゃないということ?」
「うん」
「まさか関西? 芦屋? それとも京都とか?」
「福島」
「福島?」
「しかも郡山からローカル線で30分も掛かる場所」
「どうしてそんなところに?」
「わからない」
そこで暫く会話が止まった。
「俺さ、その会社の社長だから、お前一人位雇ったっていいんだぞ」
「ありがとう。でも赤い鍵を選んだ結果だから」
「それはそうだけど、俺は港区にある会社をもらって、お前は田舎の一軒家だなんて」
「自分で選択した結果だから」
「お前、それで本当にいいのか?」
「うん」
「でもな・・・…」
「僕の腹はここで暮らすことに決まったから。それに仕事をしなくても暮らしていけるだけのお金が振り込まれるんだよ」
「いくら?」
「今勤めている会社の給料くらい」
「会社はどうするんだ?」
「うん・・・…」
「辞めるのか?」
「うん。ここからは通えないしね」
「だよな」
「兄さんは素適な遺産で良かったじゃない」
「あ、うん」
兄は気まずそうだった。
「僕は大丈夫だよ。住めば都だっていうし。ただ何もすることが無くてさ。取り敢えず、朝から近所を歩き回ってるけどね」
「歩き回るって、引越しの挨拶回りか?」
「ううん。単なる散歩。散策って言った方が合ってるかな」
「そうか。でも何か不自由したら言って来いよ」
「うん」
「俺ばかりっていう気がして悪いな」
「兄さんには兄さんの人生、僕には僕の人生さ」
そこで電話を切った。電話を切ると、とてつもない虚無感が僕を襲った。まだ30代半ばだというのに、まるで隠遁生活、僕には今も未来もなかった。一方、兄には輝ける今がある。正直羨ましかった。もしあの時緑の方を選んでいれば、とそう思った。
第5章 村の散策
兄からの電話があった翌日、村内を散策していると、前から老婆が歩いて来てすれ違いざま、会釈をした。この土地では見知らぬ人にも会釈をするのが習わしらしい。それで僕もその人に向かって会釈をした。そして、ここの人と親しくなれるチャンスだと思い、声を掛けてみることにした。
「先日、こちらへ越して来ました都築といいます」
「はい?」
「都築です」
「都築さん?」
「はい」
老婆はまじまじと僕の顔を見つめた。少し緊張した。
「どちらの都築さんですか?」
「中町に引っ越して来た者です」
「ああ、そうですか」
都築という名字はこの辺りにはない。散策の最中、門柱に掲げられた表札も見て回ったが一軒もなかった。
「お墓参りでいらしたの?」
するとその老婆は突然墓参りの話を始めた。この辺りに都築という名字がないことを知っていて、ここの住人の親戚だと思ったのだろうか。例えば娘が嫁に行って名字が都築に変わり、その息子だとでも思ったのだろうか。つまり、祖父母の墓参りに来た孫が僕だということだ。しかし、墓参りの為にわざわざ引っ越して来ることはあり得ない。それとも祖父母の家の跡取りがいなくなり、跡を継ぐ為に娘の息子が引っ越して来たとでも思ったのだろうか。
「私もお墓参りに行くところなんです」
「あ、そうなんですね」
しかし次の老婆の発言で僕の推測が外れていたことがわかった。自分が話したい話題に導く為に、その話題を質問形式で突然相手に投げ掛ける手法だ。これは病院で見知らぬ人から突然、どちらが悪いんですか、と話し掛けられる展開と同じである。しまった。はまってしまったと思った。しかし、これがそういうことだとわかっていても、新参者の僕には老婆の話の腰を折ることは出来なかった。それで仕方なく老婆に付き合うことにした。どうせ予定もない身だったので、時にはこんなことがあっても良いと思った。
二人は住宅街を抜け、やがて山道に至った。入口にはバリケードのようなものが設けられていた。みだりに部外者が入れないようにしてあるのだろう。しかし老婆はその隙間を巧みにすり抜けて行った。僕も老婆に遅れてはいけないと思い、その老婆がしたようにそこを通り抜けた。この先に墓地があるのだろうか。辺りは木々に覆われ暗かった。そして道の傾斜が急にきつくなると、その左右に小さく古い墓標が建ち並ぶようになった。
「その奥にうちのお墓があります」
老婆は突然歩みを止め、右奥の方を見ながらそう言ったが、どこを指して言っているのか、わからなかった。そして老婆はそう説明しただけで再び歩き始め、更に上へと進んで行った。どこへ行くつもりなのだろう。
山道を登る程、墓の敷地は広くなり、そこに建てられた墓標も大きくなって行った。きっと上にある程、身分が高い家だったのだろう。そしてそこを登り始めて10分も経っただろうか。遂に頂上が見えて来た。そこには立派な五輪塔がそびえていた。結局僕達はそこまで進んだ。そこは縦長で四角く広い敷地だった。
「やっぱりそうでした」
「やっぱり?」
老婆は立ち止まった途端、そう呟いた。
「どこかで都築という名字をお見掛けしたと思ったら、こちらがそうだったんですね」
「え?」
僕は老婆に言われてその敷地の中に入った。するとその一番奥まったところに「都築家之墓」と刻まれた黒い角柱の墓標があった。
(ここがうちのお墓?)
そこで改めて周りを見回してみると、墓域の入口辺りに供養された人の銘が刻まれた墓誌があったので、そこに知った名前があるかもしれないと覗いてみた。
(あ)
するとその一番末尾に父の俗名を見つけた。没年月日、行年とも父と同じだった。間違いない。それは父の銘だ。つまり紛れもなく、そこは僕の先祖が眠る墓域だったのだ。こんなに広い敷地で、しかも墓地の最も高い場所にあるなんて、どんな家だったのだろうか。僕はたくさんの先祖の墓標に囲まれて不思議な感覚に襲われた。
第6章 自治会
その夜、夕飯を終えて居間で寛いでいると、初めての来客があった。どんな用のどなただろうと玄関に出てみると、それは着物姿で歳は70位の男性だった。
(この辺りでは着物が訪問服なのか)
一瞬そう思ったが、それくらいの年齢の人には着物は特別なものではないかもしれない。
「中町の自治会長をしている庄司です。こちらは都築様のお宅でしょうか?」
その人は開口一番そう言った。そう言えばまだ表札を出していなかったので、近くの人も僕の名字を知らなくて当然だった。
「すみません。表札を出していませんでした」
引越しの挨拶をしようか迷ったこともあったが、引越蕎麦を振る舞うにしても、近所宛てに出前を注文したらいいのか、一旦うちに配達してもらったものを直接僕の手で一軒一軒持参した方がいいのか悩んだ。しかしその際、もし不在だったらどうしようかと思った。そうこう考えるうちに日数が経ってしまい、今更という感じがしてしまったので、引越しの挨拶は自然消滅した。しかしこのような地方の土地で得体の知れない人が近所に引っ越して来たとしたら、それは不気味だろう。顔見せの挨拶回りくらいしておくべきだったと後悔した。
「すみません。ご挨拶も遅れました」
更に言えば住民票も移していなかった。法律では引越しをしてから14日以内に手続きをするように決められているが、果たしてここで落ち着くことが出来るのか不安だったので、せめて半年くらいは手続きを留保しようと決めていたのだ。もし法律通りに転入の届をしていれば、このような地方では、役場から僕の情報が近所の人に伝わっていたかもしれない。そうすると自治会長が自治会費の徴収がてら、こちらの素性を確認に訪れたのではないだろうか。
(あれ?)
でも未だ転入の届出をしていないにも関わらず、どうして自治会長は今日僕を訪ねて来たのだろうか。ここ数日不審な男が近所を徘徊しているという噂が流れたのだろうか。そうだとしても出会ったのはあの老婆だけだった。すると、直接会わなくても誰かが家の中から僕の様子を窺っていたのだろうか。それともあの老婆が自治会長に報告に行ったのだろうか。
「三浦のオババから都築様がこちらに越して来られたことを伺いました」
(やっぱりあの老婆から聞いたんだ)
「はい。お墓参りの途中でお会いしました」
「町の皆にご紹介致します。明晩8時に自治会館にお越しいただけますか?」
「はい」
「自治会館はご存知でしょうか?」
「はい」
村内を徘徊してこの辺りの地理には詳しくなっていた。これで自治会に入ることになり、近所付き合いも始まることだろう。ここでの生活にどっぷり浸かることになって、ここが終の棲家になる。役所の転入手続きも急がなければいけないと思った。
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