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第10章 兄の提案
その夜、帰宅した僕は兄に電話を掛けた。兄の会社に籍を置いて給料収入が発生すれば、いくらかでも住民税が村に入ると思ったからだ。
「今、会食中でさ。ちょっと待って」
どうやら外で食事をしていたようだ。電話から聞こえて来る向こうの様子で、なんとなくそこがどういう場所なのか想像が出来た。きっと高級レストランで贅沢なワインと美味しい料理を味わっているのだろう。ただ、兄一人でそんなところにいるとは思えない。一緒にいるのは女性だろうか。僕は余計なことを勘繰りしながら、兄が再び話を始めるのを待った。
「悪い。待たせたね」
少しすると周りが静かな場所に移動したのか、兄の声が聞こえた。
「大丈夫なの?」
「ちょうどシャトー・ムートンを開けたところでさ」
「え?」
「ワインだよ」
「ああ、ワインね」
「一口も口を付けていなかったけど、お楽しみは後の方がいいからさ」
兄の前置きが終わると、僕は早速以前兄から提案があった兄の会社の社員になるという話を持ち出した。すると理由を聞かれたので、素直に土手村の財政状況を説明した。
「それはいいんだけど、お前1人の住民税くらいでなんとかなるの?」
「僕の給料で、どの程度の住民税になるのかはわからないけど、まさか高額な給与をくれるわけじゃないでしょう?」
「いや、そういう話じゃなくて、所得税ならまだしも、たかが住民税だぞ。高い給料を払ったとしても、高が知れてるだろ」
「そうなんだ」
「税収を増やすというやり方はしないで、例えば村にお金を寄付したっていいんだけど、それじゃあ、その場しのぎっていう感じだしな」
「寄付って、どれくらい?」
「仮に高額だとしても、寄付なんて飽くまで一時的なものだ。それで村が潤ってもなんか頼りなくないか?」
「すると良い策はないっていうこと?」
「ないことはない」
「どんな?」
「支社を村に作る」
「支社を?」
「うん」
「なるほど。すると村民から社員を雇って、彼らに給料を支払えばそれが住民税に繋がるっていうことだね? しかも村民自身も給料で潤うし」
「それに会社自身にも住民税が掛かるんだよ」
「そうだよね」
「ああ。会社にも個人の住民税と同じように資本金等の額によって均等割と、法人の収益に応じて法人税割がかかるんだ。個人と違って法人の住民税は額が大きいからな」
「兄貴の会社は収益が凄いんだろ?」
「ああ」
「じゃあ支社の1つくらい作ったって、どうってことないね」
「ああ」
「でも、新しく建てた支社が黒字になるまでには結構時間が掛かるんじゃないかな? そうなると暫くは法人税割は入らないよね」
「法人税割は本社、支社の全部の収益を足して割り出されるから、新しい支社が赤字でも大きな黒字になるはずだ」。
「それじゃ土手村にもかなりの額が入るね」
「法人税割は従業員の数で按分されるから、従業員がお前一人じゃ、たいした額にはならないけど、従業員を多くすれば結構な額になると思うよ」
「わかった。ありがとう。早速村長に話をしてみる。きっと喜ぶと思う。兄貴は支社の件、宜しく頼むね」
「ああ。任せておけ」
僕は、ご機嫌な状態で電話を切った。すると、あの柊さんの顔が浮かんだ。明日、早速村長にこのことを報告しようと思った。電話が手っ取り早いが、嬉しい話は直接会って伝えた方が良いだろう。それに柊さんにも会えるかもしれないと思った。その夜は昨晩以上に寝つけなかった。
第11章 式典の日
式典は一か月後に公民館の大ホールで盛大に開かれた。冒頭の挨拶で村長が僕の転入を「領主様のご帰還」と称した。そして手土産として年商50億円の大会社の支社を村に誘致する話を付け足した。そうなれば大勢の村民を雇用出来るし、会社の敷地の売買、開発で村が潤うという話もした。その前置きがあっての主役、つまり僕の登場である。会場は割れんばかりの大喝采に包まれた。僕は、ステージの中央で村長と握手を交わし、村長が舞台の袖に消えると僕にスポットが集中した。その途端、一転して会場は静まり返った。僕の第一声は決めていた。
「ただいま」
そしてそう言った瞬間、場内は再び喝采の嵐になった。
「お帰りなさーい」
そんな声も聞こえた。式典が終わると僕は柊さんに案内されて議会事務局へ向かった。議長に会うとのことだ。なんでも来月の議会の初日に議会でも僕に挨拶をお願いしたいということだった。
「議長室までご足労をお掛けします」
議長室は役場の6階にあった。公民館は役場の隣にあったので建物の移動は楽だった。
「今この町は領主様のことで持ちきりなんです」
庁舎に着いてエレベーターに乗り込むと柊さんがそう言った。
「どうしてですか?」
彼女まで僕を領主様と言うのかと思いながら、そう聞いた。
「だって、いいことばかりですから。村の財源になる会社の誘致の話は、もうヒーロー扱いです」
彼女にそこまで言われるとさすがに嬉しくなったが、素直に喜ぶのもみっともないと思い、格好をつけて、そうですかと答えた。
「それで父も是非お会いしたいと」
「お父様が?」
「はい。これから会っていただく議長が私の父です」
「あ、そうなんですか」
世間は狭いと言うが、地方はそれがもっと狭い。更に役場の中の世間はもっともっと狭いのである。エレベーターのドアが開くと、柊さんはそこに待機していた議会事務局の職員に挨拶をした。するとその職員は、僕達を連れ立って奥の個室へと向かった。そして一番遠い部屋のドアをノックすると、そのドアを開き一礼し、お客様がお見えになりましたと言った。そこが議長室である。議長室は、決裁などの事務作業をする村長室とは違って、応接専門の造りだった。その分、村長室より豪華に思えた。議長は僕を見るなり、奥の席から立ち上がり、近寄って来た。
「村の守護神に是非握手をさせてください」
そしてそう言った。それから背の低いテーブルを囲むように並べられたソファに一同が座ると、職員がコーヒーを3つ運んで来た。僕と議長とそして柊さんの為だった。父娘だからだろうか、柊さんも同席した。
「領主様はご存知でしょうか。こちらは私の娘です」
「先ほど、エレベーターの中で伺いました」
「そうなんですね。秘書課の職員をしております。議長の娘が村長の秘書というと奇異に聞こえるかもしれませんが、いわば私のスパイでして」
「お父さん!」
冗談のような、そうではないような、議長の真意はわからないしゃべり方だ。
「次の村長選挙には私も立候補しようと思っています。どうなるかはわかりませんが、その為のスパイを娘にさせているんです」
議長はそこまでしゃべって笑った。
「お父さん、いくら心の広い領主様でも、初対面の方にそんな冗談を言うなんて」
「冗談ではないよ。それに領主様だからこそ、私の真意を包み隠さず申し上げているんだ。領主様は信頼出来るお方だからね」
僕は暫く父娘の会話を黙って眺めていた。僕の母は僕が幼い頃他界した。異性の親とはこのような会話になるのだろうか。それとも父と娘だからこうなるのだろうかと思った。僕の父はいつも寡黙だった。
「実は私の家は領主様の用人を勤めていました。禄高は600石です。村長の家は勘定奉行で200石です。家柄から言っても村長に相応しいのは私でしょう。また、この役場の職員は殆どが藩士の子孫です。部長、課長は100石以上の上士の子孫ですし。そういう職員をまとめるのであれば、やはり現村長より、私の方が相応しいのです」
僕がこの村にやって来たことで、幕政時代の話が盛り上がってしまったのだろう。いや、そうではなく、このような土地では、明治以降も幕政時代の家柄で仕事や私生活が雁字搦めになっていたのかもしれないと思った。
「ですから村長選挙の際には、私の推薦者に領主様がなっていただければ必ず当選します。どうか私の願いを聞き入れていただきたいのです」
そこで議長は目の前のテーブルに両手をついた。僕は突然の出来事に驚いた。何と言って良いのかわからなかったが、議長の隣に座っていた柊さんの顔を見た瞬間、わかりましたと言ってしまった。
第12章 支社設立
支社の件はスムーズには行かなかったが、弟が急いでいたので、取り敢えず営業所という名目を足掛かりとした。営業所には営業第2課の田宮課長を次長として転勤させ、弟を部長待遇の所長とすることにした。社の業務が何もわからない弟のサポートを田宮さんにしてもらえれば安心だと思ったからだ。
支社を新たに設立する場合は、取締役会の承認を得る必要があった。その議事録を付けて登記をするとのことだ。しかし、そこに大きな不安があった。と言うのも、俺は確かに社長ではあったが単なるお飾りで、取締役達の信頼どころか、彼らと交流もなかった。根回しをしようにも声を掛けることさえ憚ったのだ。それでも努力した。取締役で最も若い事業部長兼務の赤井さんをなんとか食事に誘うことが出来た。いきなり古株に話をするのは、流石にハードルが高いと思ったし、自分と同年代の彼なら取りつく島もあるだろうと思った。それに彼の口から古参の役員がこの話をどう思うかを間接的に聞き出せると思った。
「その話には、どんなメリットがあるんですか?」
「費用対効果はどうなるのですか?」
しかし彼の口から飛び出した言葉は辛辣だった。
「メリットは地方貢献かな」
「既存の黒字を新しく支社を設立することで生じる赤字で減収出来る。つまり税金対策だ」
俺がそう答えると赤井さんは話にならないというジェスチャーをした。
「そんなことでは取締役会の賛同は得られませんし、僕も同意出来ませんね」
「何故その村なんですか? 例えば法人住民税は当分免除されるとか、そういった話が村から提示されているんですか?」
法人住民税を村に落とすために支社を作るのが目的なのに、それが免除なんかになったら元も子もない。
「いいや」
「その村には何か世に誇れるブランドがあるのでしょうか? そして我が社の事業にそれが付加価値をもたらすのでしょうか?」
会社が農作物を扱った事業をしているのなら、それも考えられなくはないだろう。あの村では良い農作物が収穫されるらしい。しかし我が社が行っている事業はM&Aである。両者が結びつくはずがなかった。
「まさか既に土地の買収に着手しているなんてことは、ないですよね?」
「え」
「もしそうだとしたら、即刻中止してください」
既に土手村とは営業所を置く話がついていて、田宮課長に転勤の手続を進めていることは言えなかった。
「この件は事業部長の私から、一応第1営業部長の河野さんに話をします。その結果次第では、なかったことになることもご了承ください」
もしこの話が没になったらどうしようと思った。田宮課長の転勤を取りやめにするのは仕方がないとしても、弟にはどのように言おうか。それに、土手村との関係で今更なかったことにも出来まい。そうなると俺個人が会社を設立して、村民を社員に雇うようだろうか。しかし、そんな応急処置で事が上手く行くはずがない。ずっと赤字続きになって、倒産するのは目に見えていた。
第13章 新しいパートナー
兄の会社の支社を設立することが決まって以来、役場に行く機会が増えた。僕も支社長という立場上、税金や保険のことを知っておこうと思ったからだ。その担当から詳しい話を聞きたかった。村長は村の一大事業だと言って、僕に便を図り、柊さんを窓口にしてくれた。窓口と言っても僕の秘書のような役割をしてくれたのだ。社員募集の窓口も役場の中に開設してくれて、そこに僕の籍もあった。1人でも応募があると柊さんから僕に直接連絡が入ることになった。そして役場の一階の会議室で面接を行うのだ。その面接には柊さんも立ち会うことになった。彼女は各村民の家庭の事情を熟知していたので、週何日勤務で、何時から何時まで働けるのかといったやり取りは彼女に任せることにした。
ところが兄からは田宮さんが来られなくなったと連絡があった。正直なところ、かなり頼りにしていたのだが、仕方がない。自分達だけで頑張るしかないと思った。当初、社員は全員女性がいいと思っていたが、田宮さんが来られなくなった今、男性一人を僕の片腕に雇うことにした。
「働き盛りの男性で無職の人はこの村にはいませんし、来年四月まで待って新卒を雇うとしても、とても領主様の右腕になんてなれる人材はいないと思います。では今勤めている会社を辞めてもらって、それでこちらに引き入れるというのも、なかなか難しいと思います」
しかし柊さんは僕の案に反対した。それなら現在は主婦でも会社勤めの経験がある女性を次長に雇おうと思った。
「それも難しいと思います。皆さん単純な事務作業くらいしか経験がない人ばかりです。領主様が求めている女性像は都会に出て行って戻って来ないような人達です。ですからこの村にはいないんです」
結局、支社の前身である営業所の段階で暗礁に乗り上げてしまった。こんなことでは、とても納得の行く支社には拡張出来ないのではないかと不安になった。
「でも、1つだけ良い手があります」
役場の一階にある喫茶室で僕が暫くうなだれていると、正面に座っていた柊さんが何かを思いついたように言った。
「私です。私を次長にしてください」
「柊さんを?」
「はい」
「でもあなたはこの役場の職員ですよ。公務員は副業禁止だったと思いますが」
「いいえ。任命権者の許可を受ければ可能です。それに領主様の事業はこの村に多大な利益をもたらします。決して私個人の利益ではありません。村の為になるのなら職務専念義務にも反しないはずです」
確かに地方公務員法第38条で村役場の職員は副業が禁止されていたが、今回のような状況なら可能だろうと思われた。そこで柊さんと僕は早速村長にそのことを掛け合うと、二つ返事で了解を得られた。
その夜、僕は自宅に購入したプリンターで柊さんの名刺を印刷した。そこに印字された、次長柊かおりという名前が眩しかった。
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