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第14章 夏輝のアイデア
法人会で知り合った夏輝と俺は恋人関係になるのにそれ程時間は掛からなかった。「私、1回目でこの人とはもう無しだなってわかっちゃうの」
「1回目っていつ? まさか法人会で初めて会った時?」
「まさか。あれはデートでも何でもないから。初めてお食事に誘ってくれた時よ」
「ああ、あの時か」
それは今日と同じレストランでシャトー・ムートンを注文した日だった。
「ワインはキリストの血、それを特定の異性と乾杯するのは特別な関係になる時だから」
弟からの電話を終えて席に戻って来た俺に、彼女はそう言ってムートンをグラスに注いだ。その日、俺達はキスをした。2回目のデートの時は俺の愛車で夜の湘南をドライヴした。帰宅したのは明け方だった。今日は3回目のデートだ。益々浮足立つはずが、俺は疲れにも似た重い感覚をずっと引きずっていた。
「今日は3回目のデートだっていうのに、何か元気がないみたい。どうしたの?」
そしてそれを夏輝に気付かれていた。
「ごめん。仕事のことでちょっとね」
「仕事のこと?」
「二人だけの時に仕事の話はしないと約束していたのに、悪い」
「ううん。真一さんが元気がないなんて、よっぽどのことなんでしょう?」
「取締役会がネックになっててね」
「重大な案件なの?」
「うん。支社の設立を進めているんだけど、取締役で承認されそうもないんだよ」
「支社を作ることが?」
「うん」
俺はいつにもなく会社のことを饒舌に語っていた。ワインに酔ったのかもしれない。しかし、夏輝に全てを話すとモヤモヤは解消され、気持ちが軽くなった。
「たいへんね」
「うん。でも夏輝に話が出来てすっきりしたよ」
「私で良かったらいつでもどうぞ。いくらだって愚痴を聞いてあげるから」
「ありがとう」
「それに、ただ聞くだけじゃなくて、適切なアドバイスをしてあげられるかもしれないし」
「そうなの?」
「うん」
「え?」
俺は夏輝の顔を覗き込んだ。一方通行の話のつもりだったが、夏輝はこの件に関して良い考えがあるような素振りを見せた。
「株主総会で提案出来ないかしら」
「総会で? 支社のことを?」
「ええ。臨時総会を開いて支社設立の提案をするの」
「それは俺も大株主だから可能だろうけど、社長という立場上、話がややこしくならないかな?」
「でしょう? だから別の大株主に提案してもらうのよ」
「誰に?」
俺以外の大株主は殆どが企業だった。個人でも僅かにはいたが、この支社の話を納得して提案してくれる人などいないだろう。
「私」
「君?」
「うん」
彼女の話だと俺から株を買い受け、大株主になった後、臨時総会を開いて支社の件を提案するという流れだった。
「でも会社の株は確か譲渡制限が掛かってるよ」
「そんなの大丈夫よ。譲渡制限があっても第三者に株を売ることは出来るし、会社がそれを認めるか認めないかの問題だけでしょう? もし認めないなら会社がその株を買うことになるけど、会社は買うなんて言って来ないと思う」
「どうして?」
「そんなムダ金なんてないでしょ? たかが支社を設立するくらいで費用対効果がどうだとか言っているくらいだもの」
「うん」
「あなたの会社の株価は長年の利益が積み重なって意外に高額なの」
「そうなんだ」
「うん。私、ちょっと調べたことがあって」
「どうして?」
「今はその話じゃなくて、ちょっと聞いて」
「わかった」
「あなたの会社の株は上場していないから、純資産価格方式に基づいて株価を決めるんだけど、あなたの持ち株全てになると高額で、そのお金を会社が用意なんて出来ないと思う」
俺はその純資産価格方式という言葉の意味が気になったが、夏輝の話の腰を折ると思い、それは尋ねなかった。
「でも私には支払える」
「え」
「資金は用意出来るから」
「もしかして夏輝の家は資産家だとか?」
「さて、どうかしら」
彼女の今までの屈託のない言動は、そういう家のお嬢様だからかと、その時納得した。
「じゃあ夏輝に株を売って臨時総会を開いてもらって、そして支社の件を提案してもらえばいいんだね?」
「ええ」
(何とかなった!)
俺はその時そう思った。
第15章 解任
真っ暗な部屋にわずかに時刻が見えるデジタル時計は2時を指していた。
「社長をクビになった」
「クビって、兄さんは大株主でもあったんだろう? それがどうして?」
それは兄からの電話だった。兄は半べそ状態で只管しゃべり続けた。後任の社長には副社長がなったらしい。副社長は父の代からずっと副社長だった人だという。父は会社に籍を置いていたものの、社には一度も顔を出さなかったので、実質はその副社長が仕切っていたそうだ。それが名実ともに今回社長になったのだ。それは彼の長年の夢だったらしい。
「夏輝は新しい社長の姪だったんだよ」
「夏輝って誰?」
「全部副社長が仕掛けた罠だったんだよ。俺に夏輝を近づけて、そして巧みに俺を罠にかけたんだ」
兄が相続した財産は会社の株だけだった。社長の椅子は父が生前に他の取締役達に口約束させていたものだったのだ。まるで豊臣家の最期のような展開だった。家臣に裏切られたのだ。
「会社を追い出されて、株も失って、無収入と変わらないよ。明日からどうしたらいいのか」
「株は売れたんでしょう? そのお金は?」
「夏輝の話はそこがデタラメでさ。上場していない株なんて二束三文さ。数十万円にしかならない」
「じゃあ年商50億という話も嘘?」
「それは本当さ。ただ株価や税金に反映しないように利益操作されていたんだよ」
「これまでの社長の報酬はどれ位残っているの?」
「殆ど使っちゃったよ」
「その夏輝っていう人に?」
「まあ、そんなところさ」
兄は社長になった途端、私生活が格段に派手になっていたことは知っていた。社長という立場上、それなりのレベルで付き合いも必要だろうと思っていたが、夏輝という女性を初め、女性関係が派手になったのが祟ったのだろう。ある時、いくらなんでも生活が派手じゃないかと言ったことがあった。するとお前にはわからないよ、と兄は言った。それでそれ以上、そのことを忠告することは止めた。もしそれが仕事上の付き合いに回されていたら、このような状況になった兄を、誰か一人くらいは面倒を看てくれたに違いない。いや、もしそうだったとしても、ビジネスの世界では上に行けば行く程、生き馬の目を抜くような世知辛いものなのかもしれない。その人に社会的地位やお金がある間は、虫のようにたかって来るのに、それらを失った途端、見向きもしなくなるのは、遥か昔からありふれた光景だ。
「こっちへ来ない?」
今の兄を取り巻く世界に恨みを込めて僕はそう言い放った。
「行くよ」
すると兄は今の家賃も馬鹿にならないからと即答した。兄は取るものも取り敢えず次の日の昼過ぎに郡山駅までやって来た。僕はそこまで車で迎えに行って、兄を助手席に乗せると、真っ直ぐ自宅へ向かった。
「どれくらい掛かるんだ?」
車が走り出して暫くすると、それまで黙って外を眺めていた兄が口を開いた。
「あと40分くらいかな」
「郡山までは都会の雰囲気があったけど、なんかすごい景色になって来たな」
車は主要通りを走っていたが、道幅はなんとか車がすれ違うことが出来るくらいだったし、人の往来もなく、道路沿いには田畑が遠くまで広がるばかりで、人家やお店が建ち並ぶことはなかった。
「この辺りに、コンビニとかあるの?」
「暫く走ればね」
「買い物とかは、どうしているんだ?」
「週に一度、車で買い出しに行っているよ」
「遊ぶとこは?」
「こっちへ来てから、まだそういうところへ行ったことはないけど、ないんじゃないかな」
「そうか」
車は更に30分程走った。その間、兄は沈黙した。
「彼女出来た?」
そして村役場の前を通り過ぎた時、再びしゃべり始めた。
「え?」
「ここには若い女性はいないのかな」
「そんなことはないさ」
「都会の子はダメさ。口から出ることと、頭の中で考えていることが別でさ」
都会の女性の全てがそうだとは思わなかったが、傷ついた兄に反論するつもりはなかった。ただ、この土地の女性は兄が言う都会の女性とは確かに違うように思えた。でもそれは柊さんのような人と知り合うことが出来たからかもしれない。ここに住んでいる若い女性の全てが、彼女のような人だとは限らないだろうし、ここへ来て初めて知り合いだと言える若い女性が柊さんだったから、そんな風に思えるのかもしれなかった。
「営業所の話、ダメになって悪かったね」
それまでシートにもたれかかっていた兄は姿勢を起こしてそう言った。
「仕方ないさ」
僕はそう答えたものの、その話は村全体を巻き込んで、かなり進行していた。昨夜の電話では、兄はその話をしなかった。僕も怖くて聞けなかった。しかし支社の話は兄が社長をクビになったのであればどうなるのだろうと、昨夜からずっと気になっていた。飽くまで会社の事業だから兄の存在とは分離して進められていた事だったのかもしれない。それなら現在進行中の営業所は安泰だ。しかし、もし兄が社長の地位を利用して僕や村に便を図っていたのなら、この話は立ち消えになるだろう。その裁断がいつ兄の口から下るのかと、内心ビクビクしていたが、いざそれが下されると、僕はその答えがわかっていたように冷静に応対していた。
第16章 二人の領主
兄がこの村にやって来て僕と同居したことは、即時に村中に広がった。すると村長から支社を建設する為の視察ですか、と問い合わせがあったので、悪い話は早く済ませようと、兄を連れて役場を訪れることにした。但し、村長と話をする前に柊さんに兄がやって来た事情を打ち開けることにした。その話をすると彼女は暫く言葉を失っていた。無理もない。まるで天国から地獄へ突き落されたような衝撃を受けたはずだ。
「でも領主様が悪いんじゃないし」
そしてそう言葉にするのが精一杯だったようだ。しかし、誰が良いとか悪いとかいう問題ではなくて、今後どうしたらいいのかが問題なのだ。支社の件は僕がここに来る前には、存在しなかった話である。最初から無かったものだと思えば気も楽になる。しかし、一度耳に入れてしまうと、それを失った衝撃は大きい。村長を初め、村民の落胆は計り知れないだろう。村長としては次の選挙に影響があるだろう。村民にしては家計の足しになったはずの就職の話がパアになってしまったのだ。
「村民が一致団結したんです。それまではバラバラになりかけていた村民が、支社が出来るという話で1つになっていたんです。その目的が消えてしまったら、と思うと残念でならないんです」
すると目の前の柊さんが涙を浮かべて大きな声を出した。僕は意表を突かれた気がした。僕の思っていたような、そんな打算的なことではなかったのだ。この村を出て行く、いや、仕方なく故郷を捨てて行くと言っても過言ではないことで、過疎化、少子化に襲われた現状を食い止める、一致団結して未来を見据える、そのようなことが、この事業計画によって実現するはずだったのだ。それが全て水の泡となってしまったのだ。
「私は秘書課に配属されて3年経ちます。ですが、これまでは秘書という仕事がよくわかりませんでしたし、充実感もありませんでした。それが今回、領主様のお世話を任されて、初めて仕事の面白さを知ることが出来たんです」
僕は彼女の仕事の面白さ、というくだりに少しがっかりした。僕との交流は飽くまで仕事の範ちゅうだったということだろう。
「仕事の面白さ、それは自分の存在意義です。私だって友達のように、この村を出て東京で暮らそうと思ったことがありました。でもそうやって、皆がここを離れてしまったら、残された人達はどうなってしまうのでしょう。一所懸命頑張っている家族や知人はどう思うんだろうって。それに先祖代々のお墓だってこれからも守っていかなくてはいけないし、それでここに踏み止まったんです。でも私がやれることといったら、ほんの僅かなことです。すぐに疑問に思いました。私が存在する意味って何だろうって。やっぱり都会に出て、仕事を見つけて、そして両親に仕送りをすれば、その方が親孝行になるんじゃないかって思いました。そこに領主様が現れたんです。そして村が生き返る話を持って来てくれたんです」
彼女はそこまで言うと、僕から顔を逸らして黙ってしまった。このようなことがあって、僕は兄を彼女に引き合わせずに、村長には兄と二人で会うことにした。
「それは大変困りましたね」
兄の口から直接経緯を説明させると、村長の第一声はこうだった。勿論僕達にはそれに返す言葉はなかった。どんな裁定でも甘受します、という心境だった。支社の敷地の買収計画もなくなり、法人住民税もなくなり、村民が支社に雇われることで発生する彼らの住民税もなくなってしまった。それに一介の主婦に給与収入があれば、村の経済効果が多少ともあっただろう。それらが全て水の泡と化したのだ。そう思うと損失は計り知れない。また、兄の話から兄には収入がなく、弟である僕の世話になることがわかったと思う。村の人口は1人増えても税金の増収にはならないのだ。村にとって兄が存在する意味はなかった。厄介者でしかない。
兄の置かれた状況はそういうことだとして、僕は今どういう立場に置かれているのだろうか。それも気になった。僕の出現によって柊さんは村が1つになったと言ったが、支社誘致の話が立ち消えた今、そのような意味があるのだろうか。但し、兄とは違って、自宅の固定資産税、健康保険税、その他生活する上で必要な電気、ガス、水道、食費は支払っている。それから自治会費やお墓の管理費、もしかしたら檀家料も支払うことになるかもしれない。支社の話がなくなってもコソコソと暮らして行く必要はないのだ。そして、若いくせに、まるで隠遁生活のようではないかと言われたら、何かムーブメントを起こせばいい。村会議員にでも立候補して村の為に貢献すれば良いではないかと思った。しかし、当選するだろうか。領主様と持ち上げられてはいたが、現在活躍中の議員がいるわけだし、僕が当選するということは、その内の誰かが落選するということである。彼らの仕事を奪っていいものだろうか。ならば新規事業を起こそう。兄がいた会社のレベルとは行かないまでも、経済効果は雲泥の差があっても、何もしないよりはましだろう。
隣でただうなだれている兄を横目に、僕はそんなことを延々と考えていた。視線は真っ直ぐ村長に向けられていたが、意識は全く別のところを彷徨っていた。
「新しくこの村で事業を起こそうと考えています」
すると突然横の兄が言った。
「え?」
僕は反射的にその兄を見た。
「どんな事業ですか?」
村長がその話に食いついて来た。
「私もあれだけの会社の社長をしていた身ですから、ビジネスのノウハウには精通していると自負しています。この村の産業に上手く合致した事業をリサーチして、然る後、村民の皆さんを社員としてお迎え出来るような会社を設立したいと思っています」
(兄貴、そんなことを言っちゃって大丈夫か?)
僕は不安になった。しかし目の前の村長の表情は一変して上機嫌になった。
「何か策があるの?」
役場からの帰り道、周りに誰もいないことを確認してから、僕は兄に尋ねた。
「ううん」
「どういうこと?」
「ああでも言わないと、帰れない雰囲気だったろ?」
僕は10%くらいは兄に期待していた。しかし、やっぱりそういうことかと思った。
「でも村長は本当に期待していたよ」
「それは俺も胸が痛む」
「どうするの?」
「どうしようか」
父の遺産で何か事業を始めることは可能だ。しかしそれが上手く行って社員を雇えるようになるかは疑問だった。それに何の事業を始めるのか、それが最大の問題であった。
「じゃあ定期的に村に寄付でもするか?」
「定期的って?」
「1年に1回くらい」
「いくら?」
「1万円、じゃあ安いよな。じゃあ10万円とか?」
僕は寄付には乗り気がしなかった。村の活性化に繋げるには単位が2ケタは違うと思ったし、永続的、且つ発展的に村が潤うようになるには、ただお金を渡せばいいとは思えなかった。
「じゃあコンサルでも雇って、それから起業の計画でも立てたらどうかな?」
兄のその話には少し食指が動いた。
「伝手はあるの?」
「ないことはない」
一瞬良い話かと思ったが、単なる兄の思い付きだと思った。コンサルの良し悪しはコンサル料の高い安いには関係ない。どれだけ親身になってくれるか、ということだ。高いコンサル料を取る輩はやたら大風呂敷で、結局実現出来ない話の場合が多い。それだけの資金があって、そんなに大きな企業が絡んでくれれば、誰だって成功するという計画なのだ。一方、安いコンサルの場合は、アイデアだけ出して、後はそちらの努力次第です、みたいなことが多い。上手く行かなくても、それはそちらのやり方が悪いことか、努力が足りないみたいなことを言い出すのだ。
「俺だよ」
「兄さん?」
「ああ。俺がコンサルになる。社長になる前は元々そういう仕事をしていたしね。村の方でも協力してくれれば、意外に上手く行くんじゃないか」
僕は大丈夫なのか、と思った。
「但し、経費はお前が出せよ」
「何か計画があるの?」
「取り敢えず、この町のことを知らないとな。それからさ」
僕は、この線で事が動き始めたことを町長に知らせるべきか迷った。しかし村長に知らせるのは実際に何を始めるかが確定してからだろう。それより村とのタイアップを目論んで柊さんに話を通しておくことが必要だろうと思った。
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