彼女はバジルの香り

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「え、えっと……。先生、ご結婚とお子さんおめでとうございます。とっても喜ばしいニュースだと思うんですけど、もうゼミの時間、だいぶ食ってますし。その話をしたい人はゼミが終わった後に、先生がご都合良ければにしませんか? 始めましょうよ」  少しでも彼女のショックが和らげばと、僕は、この話題を終わらせようと割り込んだ。何人かは「お前、空気読めよー」などとぼやいたが、殆どの人がバツ悪そうに素直にテキストを開いた。  ゼミの後、予想通り殆どの学生がその場に残ったが、茉莉香はすぐに荷物をまとめてそそくさと教室を出て行く。僕は目立たないようそっと彼女を追う。 「松本!」  彼女は走り始めた。慌てて追い掛ける。向こうはいかにも歩きづらそうな厚底靴だし、こっちはスニーカーだ。あっという間に追いついた。だが、彼女をここまで追い掛けたことを僕は少し後悔した。彼女は大粒の涙をこぼしていたのだ。 「……んだよ。追い掛けてくんなよ。見んじゃねえ」  僕はデニムのポケットからよれよれのハンカチを取り出して彼女に手渡し、背を向けた。 「そんなんで良かったらもらって」  彼女はちょっと笑った。 「ふふっ。……よれよれじゃん。でも、ありがと。……何で分かったのさ」 「だって、大学行く気がなかったのに、先生の講義を聴いてここまで追い掛けてきたんだろ? バイト三昧で忙しくて他の講義は取れなくても、先生のゼミには絶対来てる。よっぽど好きだったんだなって。そりゃショックだよ。あんな話するほうがデリカシーないよ」 「あんたいい奴だな。……悪い、ちょっと背中貸して」  彼女はハンカチを顔に押し当てて嗚咽しながら僕の背中に凭れた。彼女からは、何かハーブみたいな良い匂いがする。初めて身近に感じた異性の温もりに、緊張する。  少し胸が痛い。  ……これは、失恋した茉莉香に共感しているからだ。  その後数週間、茉莉香はゼミに現れなかった。数回ゼミを欠席した後、現れた彼女は、まるで別人のようだった。黒い真っ直ぐなロングヘア。控えめなメイクで、リクルートスーツに身を包み、足元はパンプスだ。 「先生。私やっぱり大学を辞めることになりました。今、バイトでお世話になっている建設会社が雇ってくれるので、就職します。先生がいらっしゃらなかったら、大学になんて進学しようとも思わなかったですし、こうして古文の面白さを学ぶことはありませんでした。これまでお世話になりました」  先生は眉を下げて、残念そうな表情を浮かべている。 「そうかぁ……。高校の出張講義を聴いて、目をきらきら輝かせていたお前のことが忘れられなかったよ。こうして大学にまで来てくれて、嬉しかったよ。ご家庭の事情もあるだろうけど、バイト先なら、きっと人間関係も良いだろうし、頑張ってな。いつでも遊びに来ていいからな」  元々ゼミ生は茉莉香とそれほど親しくなかったから、通り一遍の挨拶をして、彼女はすぐに教室を出て行く。僕は堪らず追い掛けた。 「松本!」 「あ、わりぃ。ハンカチ返すの忘れるところだった」  彼女はリクルート用の黒い地味なバッグから、綺麗に洗濯してアイロンを掛けたハンカチを取り出した。 「……返さなくていいって言ったのに」  せめて、ハンカチ一枚でも、彼女が僕を思い出してくれるものを持っていて欲しかった。だが、彼女はかぶりを振る。 「他の男からもらったもの持ってたら、彼氏に悪いからさ」  不意打ちに、僕は腹をパンチされたように身動きが取れない。言葉が出ない。そんな僕に気づいているのかいないのか、茉莉香は話を続ける。 「失恋してしょぼくれてたら、今度就職する会社の先輩が親身に話し聞いてくれてさ。……前から好きだった、今はその男忘れてなくていいから付き合ってくれって」  そのハンカチからは、ほんのりハーブの香りがした。 「……良い匂いだね」 「ああ! イタリアンの厨房でもバイトしてたんだ。家でバジル育ててるんだよ。物干し台でね。たぶんその匂い」  喉奥に熱いものがこみ上げた。でも、厳しい環境で頑張ってきた彼女、新しい世界に飛び込もうとする彼女に僕が言うべき言葉は……? 「松本。君はさ、楽じゃない家庭で育って、親きょうだいを助けて、立派にやってきた。公立大学に入れるほど頭も良いし勉強も頑張った。そういう君を見ててくれた人だから、きっと、その彼氏も良い人だと思う。……幸せになれよ」  彼女の瞳が優しく潤んだ。 「この大学に来て、あんたと友達になれたのだけは良かったな。バジルの花言葉って知ってる? 『幸運』だよ。あんたにも幸運のお裾分け。勉強とか就職とか恋愛とか、頑張れよな。あんた地味だけど優しいから、見る目ある女なら絶対好きになるよ。自分から行けよ。女はさ、言ってもらうの待ってるんだ」
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