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1.桜は舞い、散る
日捺子は、今日のわたしは完璧だ、と思っていた。
晩ご飯の準備はもう終わっているし、部屋の掃除もできてるし、涼也くんが明日着ていくスーツもクリーニングに取りに行くことができたし。
だいじょうぶ。うん。だいじょうぶ。
ひとつひとつ指さし確認をしたあとスーツをおおう薄いビニールを破り丸めていると、かすかに鍵がまわる音がして、日捺子はいそいそと玄関へと向かった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
日捺子は手渡された鞄を受け取りながら、じっと、その顔を見る。
今日の涼也くんはなんとなく……うん。おだやかだ。
日捺子は鞄をいつもの場所に、いつもの向きで丁寧に置いた。それから急いでキッチンへと行く。涼也が部屋着に着替えて戻ってくる前に食卓を整えなければならない。涼也くんが席に着いた時には、温かいご飯と、おかずと、お味噌汁がダイニングテーブルに並んでいるように。それが日捺子が決めた“あたたかな食卓”の定義だった。
「日捺子。クリーニング取ってきてくれたんだ。ありがとう」
着替えを済ませた涼也がテーブルに着く。日捺子は冷蔵庫でグラスごと冷やしておいた麦茶をふたつ置いてから、椅子に座った。
「いただきます」
ふたりで声をそろえて手を合わせる。まず涼也が肉に手を伸ばした。
お肉で正解だったかな。
日捺子は箸を持ったまま、涼也を観察する。涼也が一口食べる。もう一口食べて、味噌汁を飲んで、白米を口に運んだ。
「今日肉の口になってから嬉しい」
涼也がぼそりと、言う。
「そっか。よかった」
日捺子は小さく切った肉をひとかけら、口に運んだ。涼也が喜んでくれている。食べながら何度もちらちら涼也を見る。箸は問題なく進んでいる。
「涼也くん、お昼なに食べたの?」
「マック、のポテト」
「それだけ?」
「うん」
「美味しかった?」
「普通」
「そっか」
「日捺子のお昼は?」
「わたしはコンビニでカルボナーラ買った」
「美味しかった?」
「普通」
会話ちゃんとできてる。美味しそうに食べてくれている。今日こそ、だいじょうぶじゃないかな。安堵が日捺子の口を滑らせた。
「今日は、全部食べられそう?」
「え?」
涼也の声に含まれたとまどいに気付き、日捺子の手が止まった。
わたし、間違えた。
「ちがうの。別に残してもいいから」
「なにが、ちがうの?」
涼也の問いに日捺子は答えられない。かわりに頭を下げた。
「ごめんなさい」
はぁ。涼也のため息が聞こえた気がした。
「日捺子」
呼ばれて日捺子の体がびくりと震える。上目遣いで涼也を見て、また視線を下に向けた。
「ごめん」
涼也の口調はとても静かで、穏やかで、優しい。
それが、つらい。あたたかでしあわせな食卓は今日も失敗だ。
わたしのせい。いつだってこわすのは、わたし。
「なんで涼也くんがあやまるの?」
日捺子の声がどんどん小さくなっていく。
「ごめん」
「謝るの、やめて」
日捺子はゆっくりと顔を上げた。涼也は微笑んでいた。見慣れた笑顔。涼也くんがママにするのと一緒の。
「ごめんね」
日捺子は言い、冗談めかせて続けた。
「ふたりで謝って、へんだね」
「そうだね」
少しだけ涼也くんがほんとうの笑顔で笑ってくれた。
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