8.白い河で、舟を漕ぐ

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 わたしはブランコから飛び降りた。それから揺れ続ける座面にぶつからないように大きくまわって、声のぬしに勢いよくとびついた。 「おにいちゃん!」  おにいちゃんはわたしをしっかりと受け止めてくれる。 「いま、どんってしたの痛くなかった?」 「どこも痛くないよ」  頭を撫でてくれるおにいちゃんの手はいつもあったかくて、やさしい。 「九九、練習してたの? 日捺子はえらいね」 「うん。七の段も言えるよ。ひちしはにじゅうはち!」  わたしはもう、ひちしを忘れない。これからはひちしを言おうとすれば、おにいちゃんの声が聞こえる。 「帰ろう。もう、暗くなる」 「でも、ママからまだ連絡きてないよ」  わたしは首から下げていたキッズケータイをおにいちゃんに見せた。 「だいじょうぶだよ、僕が一緒だから。ね、帰ろう」 「じゃあ、そうする」  おにいちゃんがそう言うのならだいじょうぶだ。わたしのなかでママは絶対だけど、おにいちゃんはその上の一番だから。わたしは急いでブランコの柵のところに放っておいたランドセルを取りに走って、またすぐにおにいちゃんのところに戻った。 「そんなに急がなくていいのに。転ぶよ」 「転ばないよ。日捺子もう三年生だもん」  おにいちゃんがわたしの手をにぎる。わたしはその手をぎゅっとにぎり返す。おにいちゃんとふたりきり、手をつないで帰るこの時間があるから、おじさんが来る日がきらいじゃない。わたしは首を上げておにいちゃんの顔を見る。 「ねえ、おにいちゃん」  わたしはずっとしんぱいしていたことをおにいちゃんに聞くことにした。 「なあに?」 「あのね。おにいちゃんが中学生になったら、もう日捺子、おにいちゃんと一緒に帰れない?」  おにいちゃんは今、六年生だから。冬が来てそれが終わって春になったら、中学生になっちゃう。悲しいきもちがこぼれおちないように、わたしはきゅっと口をむすんだ。 「だいじょうぶ。中学生になっても、僕は日捺子を迎えにくるよ」 「ほんとうに」 「ほんとうに。日捺子との約束を守らなかったことある?」  わたしはふるふると大きく首を振った。おにいちゃんがそんなに勢いよく振ったら目まわっちゃうよ、と言って笑う。わたしはおにいちゃんが笑ってくれるのが嬉しくて、なんども首を振った。ふるふる。ふるふる。ついでにちょっとだけ変な顔もしてみせた。おにいちゃんが、はははって大きく口を開けて笑う。  うれしい。  おにいちゃんが笑ってくれてる。  わたしはおにいちゃんが、世界で一番だいすきだ。  おにいちゃんはほんとうに約束を守ってくれた。  中学生になってもわたしが外にいるときは必ず迎えにきてくれた。  もちろんうたがってなんていなかったけど。  変わったのはおにいちゃんじゃなくて、ママの方だった。   ママは、おじさんがおうちに来ているときにわたしを帰らせるようになった。  いつもではなかったし――お外にいなさいって日のほうがあっとうてきに多かった――帰ったとしても玄関で靴を見るだけで、その持ち主のおじさんに会うことはなかった。  白いスニーカー。派手なスニーカー。黒の革靴。ごつごつしたブーツ。玄関でわたしはいろんな靴を見た。  どうやらママの“おじさん”は複数人いるみたい。  それに気付いたけれど、わたしにとってはどうでもいいことで、それ以上のきょうみを持つことはなかった。  ――すぐに帰ってきなさい  授業が終わってすぐに、ママから連絡きた。わたしはママの指示どおり、スマホを見てすぐお友達とのおしゃべりをとりやめて、いちもくさんにおうちに帰った。 「ただいま」  玄関には今まで見たなかで、いっとうぴかぴかの茶色い革靴がきれいにそろえて置かれていた。
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