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声にならない悲鳴がのどの奥で鳴った。わたしはバランスをくずして、背中から床に落ちた。痛くはなかった。そんなことより、きもちわるさのほうが勝っていた。なにより、目の前の人がこわかった。
「ああ、ごめんね。急に触ってびっくりしたよね。わざとじゃないんだよ。ほら、日捺子ちゃんが落ちそうだったから、とっさに、ね」
おじさんがわたしを引き起こそうと手を差し伸べている。でも、その手を触るのはいやで、首を横に振った。
「だいじょうぶ、です。もうおねえさんだから」
わたしは床に手をついて立ち上がる。おじさんの近くには戻らなかった。
「そう。ならよかった。おじさん、日捺子ちゃんとなかよくなれたら嬉しいな」
わたしはただ、頷いた。笑顔はちゃんとできていたと思う。
「日捺子。もう、いいわ」
ママの言葉にわたしはほっとして、背を向け、リビング出て、逃げるように二階の自分の部屋に行った。
――なかよくなれたら嬉しいな。
わたしはなかよくなんてなりたくない。
おじさんはまた来るのかな。
いやだ。いやだ。
わたしは、おじさんに触られたほっぺたをハンカチでごしごしとぬぐった。
その日の夜、二階に上がってくる乱暴で不規則な足音で目が覚めた。わたしは体を縮こませて掛け布団の端をぎゅっと握った。
ママが、酔っぱらってる。
こういうときママは、ご機嫌だったらわたしの部屋のドアを、不機嫌だったらおにいちゃんの部屋のドアを開ける。
ママの足音が止まった。
わたしはドアをじっと見た。
どうか、わたしの部屋でありますように。
どこかのなにかに祈る。
だけど、願いは届かなかった。
大きな物音と怒鳴り声に耳をふさぐ。
――不機嫌なママは、おにいちゃんに痛いことをする。
そのことに気付いたとき、わたしはどうしてもそれを止めたくて、おにいちゃんの部屋で寝ることを思いついた。ママは、わたしの前ではおにいちゃんに痛いことをしないから。
わたしは思いついた日から、おにいちゃんといっしょに眠った。
そうやって、おにいちゃんを守っているつもりでいた。
でも、それはママのご機嫌をしずかにじっくりと悪いほうに煮詰めていっただけで、すごく眠くて眠くて仕方なくてソファで寝ちゃった日、おにいちゃんの指の骨が折られていた。
「日捺子が悪いのよ。だめでしょう。自分の部屋で寝なさいってママは何度も言ったのに。日捺子のせいなのよ」
ママに言われて、わたしは自分の考えなしな行動を、すごく、後悔した。日捺子のせいじゃないよ、と、どれだけお兄ちゃんが言葉を尽くしてくれても、後悔が消えることはなかった。
わたしはそれから、ママのご機嫌が悪くならないように、そっちに気持ちをまわすようになった。
おにいちゃんが傷付かないように。
痛いことが、怖いことが、おにいちゃんに起きないように。
おにいちゃんは知らないけど、夢でうなされているのをわたしは知ってる。
痛いよ。
許して。
ごめんなさい。
苦しそうなおにいちゃんをわたしは見たくない。
今日、ママのご機嫌が悪いのはわたしがおじさんの相手を失敗したからだ。
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