ふるえる心をぎゅっとして。

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ふるえる心をぎゅっとして。

探しているものがある。 ここにはあるだろうか。 本当に、どんな本でもあるのだろうか。 私は町の古本屋さんの入り口をじっと見つめた。 ** 昔、おじいちゃん──お母さんのお父さん──に聞いたことがある。 『隣町にある古いたてものを見たことがあるだろう? あれはね、本なら何でもある古本屋さんなんだよ。綾香のお母さんがなくした教科書も、本当にあったんだ』 おじいちゃんはまだ小学2、3年生だった私の頭を撫でながら目を細めた。 口元を柔らかくほころばせながら。 『本当に何でも?』 『そう、何でも。そうやって貼り紙もしてあるからねえ』 『へええ、おじいちゃん、それ見てみたいな』 その言葉を待っていたようにおじいちゃんは膝をたたいた。 『じゃあ行ってみよう。きっと楽しいよ』 『うん、行こうよ』 ──きっと、そのあとで行ったのだと思う。 でも、その『古本屋さんに行った』記憶が抜けている。おじいちゃんの手を握って歩き出したような気はするのだけれど。 『何でもある古本屋さん』 そのおじいちゃんの言葉だけはしっかりと覚えているのだけれど。 * 私はその古本屋さんの前に立っている。 『どんな本でもあります』という貼り紙。おじいちゃんの言っていたとおり。 普段本なんて読まない。読んでも教科書かネットの小説。短いものばかり。 だから本屋さん自体にほとんど来たことがない。ノートやペンが売っている本屋さんには行くこともあるけれど。こんないかにも本しか置いていませんよと主張しているような本屋さんには来たことがない。ほら、おじいちゃんと来たような記憶もおぼろげで曖昧なものだから。 建物は古ぼけている。今にも倒れてしまいそうにみえる。本がそれだけたくさん置いてあるのだろうか。本の重みで家が倒れるってことはあるんだろうか。いや、1階だから大丈夫なのか。いやいや、2階にも在庫はあるのだろうか。私は顔を上げて2階をみた。さすがに2階の窓の中は見えない。 1階の店の入り口は中のよく見える引き戸。私は目を細めて引き戸のガラス窓から店内を見回した。見える範囲で。 「本当に何でもあるのかなあ」 どうなんだろう。 探している本が特殊なものでも? 引き戸にかけた手をグーパーにしてみる。なんとも踏ん切りがつかない。 見える範囲内では、漫画や雑誌はなくて。 私みたいな中学生が入っていってもいいのかしら。 そんなことを考えてどうしても一歩を踏み出せなかった。 「ねえ。邪魔なんだけど。入らないの?」 足が竦んでいた私の後ろから男子の声が聞こえた。 しかも邪魔って。 「すみ、ません」 頭を下げてそっと扉の正面からずれる。 すっと横に立ったのは同じクラスの宇野くんだった。 「え? 宇野くん?」 「なんだよ、綾香か」 「本……宇野くん、古本屋さんで本を買うの?」 「ちがうよ。俺のじいちゃんち」 じいちゃん? 頭がぐるぐるしている私の横をすり抜けて、宇野くんはさっと扉を開いて店内に入っていった。そこでちらりと私を振り返る。 「綾香は? 何か探すの?」 宇野くんの声に思わずうんうんと何度も頷いた。 「じゃ、入れば?」 * 「じいちゃん来たぜー」 宇野くんは大声で声を上げながら店の奥まで入っていった。 私は恐る恐るその後ろをついていく。本がそれこそ天井まで届きそうなほど積み上げられている棚もある。見たことのないような字体の背表紙や、分厚い本。不思議な匂い。 今にも倒れてくるような、量量量。囲まれると息ができなくなりそうな気持ちになる。 なんだかこわいな。本を読まないから、歓迎されていないような気すらしてくる。 きょろきょろと見回していると、ふいに立ち止まった宇野くんの背中にぽすんとぶつかってしまった。 「痛、い。ごめ」 「わるい、俺さ、今からここでバイトなんだけど。何か探すなら手伝うよ?」 制服の上着を脱ぎながら、エプロンを手に取って宇野くんが誘ってくれる。 バイト? バイトしてるの? 宇野くん? バイトは中学生ってしていいの? おうちのお手伝いならいいのかな? でもでも、なんてありがたいことを。 「うん、うん! お願い。不安だったの」 「だと思った」 肩をすくめて宇野くんが微かに口角をあげた。 あ。 なにそれ、かわいい。教室では見られない顔。 小学校から一緒だったけれど、なんとなく話してこなかったのは。宇野くんがあんまり笑わないからちょっとこわかった、っていうのもあったのに。 だからにこっとされてどきっとした。 そのとき。 「お客さんかな?」 「あ、そう。じいちゃん、クラスの鹿島さん。何か探すって言うから手伝ってくる」 奥から顔をだしたおじいさん。に、宇野くんが答えている。 宇野くんに少し似てる眉毛のかたち。おじいちゃんか。 私はそっと頭を下げた。 「どんな本でも見つかるからね。諦めないこと。諦めなければきっと見つかるよ。それだけおぼえていてね」 おじいちゃんがふわりと笑って優しく言ってくれた。 諦めないこと。 その言葉に胸が震えた。 諦めないこと。何度も胸の中で繰り返す。 そして、制服の胸のあたりをぎゅっとつかんで、はい、と頷いた。 * 「さてと。何を探してるの?」 「えっと、あの、あのね、卒業アルバム」 「──それなら俺も同じの持ってるけど」 「小学校のじゃなくて」 「ん?」 私は唇を噛んでうつむいた。 「私たちの小学校のじゃなくて、じゃなくて、お母さんの小学校の卒業アルバムを探してるの」 「お母さん?」 こくんと頷いてみせた。 靴のつま先を見つめながら言葉を探す。 「お母さんの、はつこいのひとの、写真」 * 「卒業アルバム、かあ。どのあたりだろ」 「あるの?」 「ん、さっきじいちゃんが言ってただろ。なんでもあるって」 「『あきらめなければ』?」 宇野くんはにこりと笑った。その眉毛の少しさがった感じがさっきのおじいちゃんとそっくりだった。やっぱり教室では無表情な宇野くんと同一人物とは思えない。 「探そうぜ。学校の名前は? 俺たちと同じ?」 「ちがくて。隣町。せいなん……西南小学校」 おっしゃ、と呟いて宇野くんは右腕をぐるりと大きくまわした。 そして大股で書棚の間に入っていく。こころあたりがあるのだろうか。 「あの、ありがとう!」 「おうよ、綾香も探して。俺は手伝えるだけ」 そうだ。 探すのは。 諦めないのは。 私なんだから。 * 「ううーん、この棚でもないな」 最初の棚からふたつみっつよっつと、皿のようにした目で探し回る。 でも、なかった。 指で一冊一冊の背表紙をなぞりながら、宇野くんも私も探したけれど。 卒業アルバムは、どこの学校のものもなくて。 ──大体、卒業アルバムの置いてある古本屋さんなんて普通あるのだろうか? ふと疑問が湧いてくる。 その疑問は胸の中で黒い絵の具を落としたように大きく拡がっていく。 お母さんのアルバム。 本当はやっぱりここでも見つけられないのかもしれない。 黒い黒い色に自分の心が染まっていくような気がした。 ごめんね、お母さん。 考えていたら、ずずっと鼻の音が店内に響いてしまった。 「綾香」 あ、聞こえたかな。 恥ずかしい。 互いに背中合わせで、向かい合っている書棚を探しているから。赤い鼻は見えてはいないと思いたい。なのに宇野くんがいつのまにか隣に来ていて。顔を覗き込んでくる。 慌てて宇野くんと反対のほうを向いて目頭と鼻を押さえた。 「綾香はどうしてお母さんの卒業アルバムがほしいの?」 赤い鼻や赤い目には触れずに宇野くんが聞いてきた。 私はもう一度鼻をすする。 何て言えばいいんだろう。でも、答えなければ。せっかく一緒に探してくれているのだ。 「あの、あのね、具合が悪くて」 思わず早口になって答える。まとまらない。 「ゆっくりでいいよ、うん、お母さんの具合が悪いの?」 ひゅっと息を吸って私は頷く。 「もう一回深呼吸してごらん」 言われるままに大きく息を吸って、吐いてみた。 不思議。 宇野くんの声が優しく私の胸にしみてくる。 私の震える心をぎゅっとおさえてくれるみたいに。 * 「お母さんの具合が悪くて。あのね、入院したの」 「入院? じゃあ家で綾香ひとりなの?」 「うん、だからおじいちゃんちにいるの。お父さんいないから」 お母さんが離婚したのは小学校のとき。宇野くんも知っている。 だって名字がかわったから。みんな、知ってる。 住むところは引っ越したけれど。近かったから小学校はかわらずに済んだ。 きっとそうしてくれたんだと思う。お母さんが。 「そのお母さんの卒業アルバム?」 「うん、お母さんなくしちゃったんだって。あの引っ越ししたときに」 宇野くんは聞きながら話しながら、目は棚の背表紙を追ってくれている。器用で優しい。 やさしい。 「そこに『はつこいのひと』がいるの?」 「そうなの、はつこいのひとがいるんだって。その人が見たいなあってお母さんが笑うの。病室で。だから、だからさ」 「『見つけてあげたい』?」 「元気にしてあげたい。それに、お母さんの気持ちがちょっとでも楽しくなってほしい」 不思議。 宇野くんに話しているとなんとなく気持ちがまとまってくる。 「そっか。綾香はやさしいな」 「宇野くんのほうが」 「ん?」 両手で口を押さえてぶんぶんと首をふる。これはもっと恥ずかしい。 自分が優しいと言ってもらえたことよりも宇野くんの目の前で宇野くんを優しいって言いそうになってしまったこと。恥ずかしい。 顔が赤くなるのを感じる。 宇野くんは、どしたの? って言いたげに目を細めて、でもすぐに書棚の背表紙に視線を戻した。 「じゃあさ」 「え?」 「じゃあさ、卒業アルバム、絶対見つけような」 「え? ──うん、うん!」 頷きすぎて首が痛くなってくる。 うん。 うん、うん。 いつの間にか胸の中の黒い絵の具がカラフルな色に変わっていた。 そんな気が、していた。 胸の不安がなくなって、ただただ信じたくなった。 きっと見つかる。 諦めない。 ほら、おじいちゃんの言ってくれた言葉。 もう一度、思い出す。 ──諦めなければ、きっと見つかるよ。 ふるふると震えていた心をぎゅううっとつかまえる。 大丈夫。つかまえられる。 * 背をぴしっと伸ばして書棚の前に立つ。 何度も何度も見返した背表紙を、もう一度指でなぞって探し始める。 背の高い書棚の上から下まで、高いところは宇野くんが。 さっきまで怖かった、おそってくるような感覚だった古い本たちが誘うように呼んでいる。 そんな気持ちになる。 天井まで積み上げられた本が、ここも探してごらん、あそこも見てごらん、と言ってくれているみたい。本を読まない私には牢獄のように思えた空間が、ふわりふわりと温かく見守ってくれる空間にかわった。 ──諦めなければ、きっと見つかるよ。 背中を押してくれる言葉。 それから。 ちらりと振り返って宇野くんの背中を見つめる。 一緒に諦めないでいてくれる人がいる。 うん、頑張ろう。 絶対に、見つかる。 お母さんの笑顔を思い出して、私はじいっと背表紙を追った。 さっきも探した棚をもう一度。 もう一度、何度でも。 「あ」 指が止まる。さっきは見つけられなかったのに。 その声に反応して宇野くんが横にやってくる。 私の指が止まったその背表紙を、宇野くんが書棚から引き抜いてくれた。 「せいなん、しょうがっこう」 宇野くんがぱらぱらとアルバムをめくり、後ろのほうの名簿を開く。 「名前は? お母さんの」 「え、と、京香」 「名字は鹿島でいいの?」 「う、ん。鹿島、京香」 「クラス」 「6年2組」 背表紙をなぞっていた指で、今度は名簿をなぞる。 宇野くんの指は魔法の指なんだろうか。 お母さんの名前をすぐに見つけてくれた。 そして大きくアルバムを開く。 「6年、2組、っと」 ろくねんにくみ。 そこでお母さんが笑っていた。 個人写真。可愛い。なんだかくすぐったい。お母さんが今の私よりも小さいころ。 クラス写真のほうは少し真面目な顔で、緊張しているみたい。 思わず顔がほころぶ。 「おかあさんだ……」 横で一緒に見ていた宇野くんが頷く様子が伝わってきた。 「綾香はお母さんにそっくりなんだね。なんか可愛い」 「うん、可愛い。なんか可愛いよね──え」 「あ」 宇野くんの顔を思わず見上げる。そこには顔を真っ赤にさせて明後日の方向を見ている宇野くんがいた。 「かわいい?」 「うそ。わすれて」 「やだ。聞いたもん」 今度は私がじいっと宇野くんの顔を覗き込む。 赤い顔は私を見てくれない。とりあえずは──まあいいか。 「お母さん、可愛いよね。この中に、はつこいのひと、いるよね」 話題をするりとすり替えて、私は宇野くんに向かって話し出す。 そうしたらやっと、宇野くんはこっちを向いてくれた。赤い顔のままで。 「そうだね。きっといるんだよ。お母さん元気になるといいね」 宇野くんの言葉が私の中にしみこんでくる。 その空気に今日は何度も救われた。 心がふるふると震えていた部分を、しっかり固めてくれた。 諦めない、その声が。 とてもとても、好きだと思う。 「うん! うん、きっと! 元気になってほしいの」 そこで息を小さく吸い込んで、続けた。 「ありがとう、宇野くん」 * 四人部屋の病室。お母さんはそこにいる。窓際の空間は明るくて、それだけでもよかったと思う。部屋の住人は他に二人。そこはカーテンでくるりと閉じられていた。 「あ、綾香。来てくれたの」 学校帰りにお見舞いにきた私に、お母さんが笑ってくれる。 宇野くんが横でぺこりと頭をさげた。 「こんにちは、はじめまして」 「えっと、うのくん? だよね」 「あれ、お母さん宇野くんのこと知ってるの?」 「そりゃあね……小学校のころはよく学校に行ったもの。授業参観も奉仕活動も。宇野くん、綾香のことよく見ててくれたでしょ?」 「え?」 んんっと喉を鳴らす音。 それからごほごほっとわざとらしい咳の音。 「宇野くん?」 「高いところのものとかポスターとか宇野くんがとってくれてたのよ。お母さん、何度も見たわ。綾香が手こずってるとすすっと近くにきてね」 「あの、アルバムが!!」 こらえきれないように宇野くんが大声を上げた。 お母さんがふふっと笑う。 「まあそれは、またってことで」 「……親子ってこわ……」 なにやら宇野くんが呟いた。そうだよ、私とお母さんは親子で、そっくりで。かわいいんでしょ? また聞かなくっちゃ。 「お母さん、アルバム見つけてきたよ。卒業アルバム」 「え? ああ! ほんとうに?」 カバンからアルバムを取り出してお母さんに渡す。受け取ると表紙をじいっと見つめ、それから胸に抱きしめた。ありがとう、と小さく呟き、そっとアルバムを開く。 「ふふ。嬉しい。なつかしい。ほんとにほんとに」 ゆっくりと一人一人の顔をながめ、さっちゃん、とか、ゆかちゃん、とか呟いている。 ふと視線が止まったのがわかった。ながくながく、その一点を見つめている。 なんとなく、その人なのかな、と思った。 指がその人の写真を撫でている。 「──くん」 お母さんは優しい声でその人の名前を口にした。 * 「お母さん、よろこんでくれた。絶対元気になる。なってくれるはず」 病院からの帰り道。 私は何度も呟いた。 「元気になるよ。絶対に、私を置いていったりしないよ」 自分に言い聞かせるように、何度も。 歩幅を合わせてゆっくり歩きながら宇野くんも。 「元気になってくれるよ、アルバム探してよかった。綾香が諦めなかったから」 「うん、それも宇野くんが」 「ん?」 その『ん?』っていうのは、本当に反則だと思うの。 笑顔が、反則だと思うの。 思わず目をそらす。すると、楽しそうに追いかけるように宇野くんが顔を覗き込んでくる。 「俺が、なに?」 「んんんっ。なんでもない。──こともなくて。ほら、お母さんと私、よく似てたでしょ」 「そっくり」 「かわいい?」 ぶほっと宇野くんが吹き出した。何かを言いたげにもぐもぐと口を動かして、でも黙って明後日の方向を見た。 そして、ぼそぼそと話し出す。 「だってさ、高いところのものとか。届かないくせに頑張って背伸ばしてるの、か、かわいいじゃんか」 「ぐ」 そこまで、そう、そこまで言ってくれるの。なんだろ。嬉しい。 胸がふるりと震える。 嬉しい。 そんなふうに、私が気づかないころから見ててくれたこと。 一緒にこうやって病院に来てくれたこと。 諦めないで、卒業アルバムを探してくれたこと。 全部全部ひっくるめて嬉しい。 「ありがと」 全てを込めた言葉を、宇野くんに告げる。 「こちらこそ。うちの古本屋にきてくれて、よかった」 宇野くんのその言葉で、私の胸は。心は。 またふるりと震えた。 * 不思議な古本屋さん。 また行こう。 つぎは、そうだな。 宇野くんの日記とか? あのころの。小学校のころの日記とか。 私のことをどんなふうに見てくれていたのか。 探して読んでみたいと思う。 ──なんでもある古本屋さんだから。 「日記なんて書いていたかは知らないけど」 ふふ。 きっと宇野くんは無いって言うんだろうけど。 あるかもしれないじゃん? 諦めなければ。 その気持ちも知ることができるかもしれないじゃん? 震える心がでてきてしまっても、固めることができるかもしれないじゃん? 不思議な古本屋さん。 絶対絶対。 また、行こう。 また、一緒に。 宇野くんと一緒に本を。 思い出を、探すんだ。
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