1.異世界への入口

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1.異世界への入口

私は小学校に入学した頃、「ドロンコ娘」と呼ばれていた。いつも男の子に混じって、鬼ごっこやサッカー、泥遊びなんかをしていたからだ。女の子と一緒に人形遊びやおままごとをすることは、性に合わなかった。 小学校の高学年になった時、母親は私にフルートを買い与えた。少しでも女の子らしくなってほしい、そんな願いがこめられていたのだろう。フルートを始めることはあまり乗り気ではなかった。しかし、フルートの教室に通ううちに上手く吹けるようになり、徐々にその楽しみを知り、いつしかフルートの魅力にはまっていた。気がつけば小学校を卒業するまで三年間、私はフルートを吹き続けた。それでもやっぱり、男の子に混じって泥だらけになるまで遊ぶことが多かった。 中学校に入学すると、周りの目が気になり始め、ドロンコ娘は鳴りをひそめるようになった。部活以外の時は、友達とアニメのキャラグッズを買いに行ったりとか、オシャレな洋服を見に行ったりとか、普通の女子中学生として日々を送っていた。しかし、高校受験が近づくにつれて、その日常は変化してきた。 私は早い段階で、推薦によって高校が決まっていたけれども、友達はみんな一般の受験のために、勉強を続けていた。部活ももう引退していて、遊び相手もおらず、一人で過ごすことが多くなった。そんな中、たまたま押入れを整理していると、見つけたのはフルートだった。久しぶりに吹いてみようとフルートを手に、家の裏にある山を登っていった。 フィロロロ……。 人気のない林の中に、フルートの音色が響く。 「おお、出た」 久しぶりに聞いたフルートの音に感動する。三年のブランクはあったが、指は勝手に動き出し、記憶の中と同じ音色が奏でられる。いつしか夢中になり、時間も忘れてフルートに没頭していた。 「チュウチュウ」 その鳴き声にハッとする。足元に視線を向けると、小さなネズミがいた。路地裏にいるネズミのような薄汚れた色ではなく、鮮やかなピンク色の毛並みをしていた。こんな珍しいネズミがいるのだなと思っていると、また「チュウチュウ」と鳴いた。 その鳴き声には、何かを訴えるような、そんな響きがあった。しかし、私にはネズミが何を言っているのかは分からない。 やがてピンクのネズミは、林の奥に走り出す。すぐに立ち止まってこちらを振り返り、また鳴き始める。 「ついてこい、ってこと?」 私の言葉にもちろん返事はない。しかし、ネズミはまた林の奥へと走り、再びこちらを向く。 私はゆっくりと、後を追いかける。ネズミはまるで、私の歩くペースを確認するかのように、何度もこちらを見る。 やがて、目の前に大きな洞窟が現れた。岩肌をくり抜いたようなその洞窟の入口は、私の背丈よりも大きかった。かなり奥まで続いているみたいだけれども、ずっと遠くにうっすらと明かりも見える。裏山の奥まで来たことはなかったが、こんな洞窟があるとは知らなかった。 「チュウチュウ」 ネズミは一段と大きな声をあげたかと思うと、洞窟の奥へと走り出す。暗闇の中にまぎれてしまい、その姿はもう分からなかった。 心臓がドクンドクンと脈打っていた。ここまでネズミを追ってきたが、果たしてこのまま洞窟を進んで良いものかと悩んでしまう。この中は危ないんじゃないか。こんなところに入ったら大人に怒られるんじゃないか。そんなことが頭に浮かぶ。しかし、そんなことよりも、胸の奥に芽生えた好奇心が、私の足を動かした。ドロンコ娘と呼ばれたあの頃と同じ冒険心が、私を興奮させていた。 中は暗く、地面には小さな石がたくさん転がっていて、歩きにくかった。慎重に、転ばないように、奥へ奥へと進んでいく。ネズミの姿はすっかり見えなくなってしまった。 しばらくして、出口が見えてきた。光が差し込んでいるが、外の様子はうまく見えない。私ははやる心を抑えて、明かりの方へとゆっくり向かう。 ようやく洞窟から出ることができた。目に飛び込んできたその景色に、私は息を呑んだ。 そこは、丘の中腹なのか、高い位置にあり、眼下には草原が広がっていた。その草原の広さは、中学校の校庭の何十倍もあるだろう。強い風が草をなびかせて、まるで緑色の海みたいに波打っている。そして、はるか遠くには山脈が連なっていた。今までの人生で私が見てきたような山々とは違い、白い雪がかぶったその山脈は、剣先のように尖っていて、灰色の大空に鋭く突き刺さっていた。 私はその場から動けなかった。さっきまでの記憶があやふやになる。ここはどう見たって、私の町ではない。いや、きっと日本でもない。私はもしかして海外旅行でも来ていたのかと記憶を探るが、どう考えたって家の裏山でフルートを吹いていただけだ。ワープ、瞬間移動、そんな言葉が頭に浮かぶ。しかし、そんな考えも、目の前の光景を見てふっ飛んでしまう。 草原の上を、何かが飛んでいる。私は目を凝らす。それは、おそらく、蛾だった。マンションの壁に、夜になったらくっついている、あの昆虫だ。茶色の羽をゆっくりと上下に羽ばたかせて、草原の上を移動している。頭から突き出た触覚が小刻みに震えていた。細かい粉のようなものが周りに漂っていて、光を浴びてキラキラと輝いている。 蛾と思われるその生物は、私が今までに出会った蛾と同じ見た目だ。しかし、一点だけ、明らかに違う点があった。私の人生で見てきたような、手のひらサイズではなく、人間よりも一回りも二回りも大きいサイズなのだ。それは、怪獣映画の敵キャラとして登場するような化け物を思い出させた。しかし、それはスクリーン上ではなく、今、目の前で、実際に動いているのだ。 「ブウェェェェ」 その生物がけたたましい鳴き声をあげ、空気がビリビリと振動する。私はよろけてしまい、その場に尻もちをつく。しばらくして、その生物は草原の奥の森へと姿を消した。 全身が震えていた。あり得ない状況に、恐怖が体の奥から湧き上がる。胃袋がひっくり返ったように気分が悪かった。頭が混乱し、上手く物事が考えられない。しかし、一つだけ間違いないのは、この世界から逃げないといけないということだ。 私は手をついて、立ち上がる。振り返って、洞窟に戻ろうと踏み出した足は、すぐに止まった。さっきのさっきまで存在した洞窟が、そこにはなかった。ただ目の前にはごつごつした岩肌が広がっているだけだった。 私はあまりのことに呆然としてしまう。何が何だか分からなかった。気が動転する中で、私はどうやら異世界に来てしまったのだと、その事実だけが突きつけられていた。そして、元の世界に戻るための道は今、完全に閉ざされてしまった。
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