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四.共鳴
鼻歌が聴こえる。
懐かしいメロディーが、やさしく響き渡っている。
口ずさんでいるのは……良介自身だった。
目の前は、真っ白な空間。そして純白のグランドピアノで音を奏でる白い指がある。
「懐かしいね。昔を思い出す」
良介はハッとした。大人びたその声、ピアノを奏でる手、その人は――
「春! 今までどこにいたんだよ!」
「――君の中に、いたよ」
ピアノを弾いていた彼の指にヒビが入り、粉々に砕けゆく。
細かな破片が重力を完全に無視した状態で、目の前を漂いはじめた。
「なんだよこれ、手が! だめだ、止まれ! 繋がれ、嫌だ、消えないで……!」
そう。彼も、彼の弾くピアノも、大好きだった。
良介は両手で必死に彼の空中に浮遊する指の破片たちを掻き集める。まるで、砂場の砂を集め、城を作る子どものようだった。
だが、彼の破片は元に戻ることはなく、無慈悲に粉雪のように舞うだけだった。
春の両手首は完全に砕け散り、何もない状態。それなのに、鍵盤から音を奏でているのは紛れもない、春であった。
「夢――?」
「良介、また歌ってね。聴いてるから」
春の両手首からは、まるで血のように夥しい真紅の花びらが舞い落ち、それらが宙に舞うと、姿が一気に飲み込まれ見えなくなってしまった。
良介の全身も花びらが覆い尽くし、顔面が埋もれる寸前で彼は叫んだ。
「兄さん!」
光一つ無い闇の中で、母の悲鳴が聞こえた。血の匂い、救急車のサイレン。父の怒号のあと、良介の体が吹っ飛んだ。左頬が痛い。
手のひらに感じる、自宅の絨毯の柔らかさ。
それから、病院の匂い。線香の香り――そして皆がすすり泣く声。熱い涙が頬を伝う。
『お兄ちゃん、ピアノ上手でいいな』
『良介は、歌が上手でしょ。でも――あげようか』
『いいの? うん!』
良介が目を覚ますと、そこは自宅アパートの玄関だった。倒れていたらしい。
額の汗が止まらない。体は震えていた。
「うわっ!」
ポケットの中の震える音に驚かされ、恐る恐る光る板を見てみると、レイカからのメッセージが来ていることに気づく。
『待ち合わせ場所、着いたよ。持ってるね!』
「待ち合わせ……?」
すぐに着信履歴が山のように届き、通知音が焦燥感を掻き立てた。
『絶対に逃さない。お前は静かにその場で待ってろ』
ぼんやりとした記憶の中で、笠城の声がまだ脳内にこびりついている。
ポケットのことを思い出してしまってから、どうしても手のぬくもりが忘れられずにいる。一体、何が起きているのか良介にもわからない――。
だがこれだけは言える。
今直ぐ“それ”と手を繫ぎ合いたい、と。どうしても確かめてみたい。
「――君は、春なのか」
ロングコートのポケットの中に、ゆっくり手を忍ばせる。
そして、大きく、力強い手で優しく握り返してきた。
指が絡むだけで、恐れや迷いは全て無くなった。優しい声が、良介にだけにしか聴こえない誰かが、囁いてくる。
「全部、思い出したよ。ずっと忘れてて、ごめん――」
部屋の中に良介の声だけが虚しく響いている。
もう、何もいらない。口元に笑みを浮かべる良介の瞳は安堵に満ちていたが光はない。
昔、彼が弾いていた曲を口ずさむと、ピアノを奏でるようにメロディに合わせ楽しげに手がポケットの中で滑らかに舞った。
手と手が抱きしめ合う。秘密の世界。
再び“繋がった”からにはもう離さない。
無限に広がる宇宙に二人は深く飛び込み、潜ってゆく。手を繋ぎながら――。
「ずっと、近くにいたんだね、俺が生まれたときから」
良介のとても優しくて穏やかな歌声が聴こえてくる。
アパートの玄関――血溜まりの中の黒いコートのポケットから顔を覗かせていた赤い花びらが一枚、ひらりとこぼれ落ち、消えた。
良介のアパートに、警察と鑑識が入る様子を遠くから窺う笠城の姿があった。
「また振り出し、か」
混沌としたこの世界の裏側で、良介は今日もどこかで、春と生きているのだろう。
歌が好きだと言ってくれた彼と、永久に音楽を奏で響かせるのだ。
その美しい共演は、世に知れ渡ることはない。
だが、“ポケットの中”へ招待されたのならば、話は別だ。
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