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二.邂逅
ポケットの異変に気付いたのは、小学二年生の夏休みだった。
今の地域に引っ越して間もない頃だ。その日は午前から虫取り網を片手に、最寄りの公園で一人昆虫採集をしていた。
自宅のすぐ隣だったこともあって、引っ切り無しにその公園へ通っていた。
「セミのぬけがらみっけーー!」
茂みの葉の裏を覗き込む良介。偶然見つけた抜け殻。を興味津々に見つめる。
「かっこいい」
ジーンズのポケットの中に入れようと手を入れたところ、何かに一瞬手を掴まれた。
「うわ!」
当然のことながら度肝を抜かれ心底驚いた良介。
急いで家に向かうと、その話題で数時間持ちきりになる。
夕方、食卓の前で両親に何度も伝えようとした。だが――
「本当だよ、ポケットに手がいたんだよ! 引っ張られた!」
興奮しているのは、良介のみ。父は相槌を打つわけでもなく、黙々と夕飯を口に運んでいた。
「そんなこと、あるわけないじゃない。いい加減にして。しゃんとしなさい」
母が困り顔で良介を見つめながら言った。
良介は眉を顰める。
「セミのぬけ殻、無くなってたんだよ!」
「――落として茂みにでも無くしたんだろう。そんなくだらないこと、誰にも言うなよ。頭がおかしくなったと思われる」
冷たい言葉を放つ父に、カチンときた。
「もう! 言わなきゃよかった!」
夕飯は大好きなハンバーグだったが、怒り心頭の彼は隣の寝室へ走り去ってしまった。
床に敷かれっぱなしの布団の上に飛び込むと、そのまま静かに泣き続ける。
「本当なのに」
ふと、部屋のハンガーに掛けられたネイビーのジャケットに目が向いた。
右ポケットが不自然に動いている。
それを注視していると、中から誰かの右手が顔を出し、良介に向かって手を振るではないか。
「……」
その得体の知れぬ存在を目にしたというのに、恐ろしいほど彼は冷静であった。
“それ”は、どうやら良介になんとか元気になって欲しいらしい。
お前のせいだ。親におかしくなったと思われたかも。どうしてくれるんだ。と、おもむろに手にした枕をジャケットに向かって投げるが届かない。
涙を拭い、ベッドから立ち上がる。そして、強く怒りを放つ足取りで“それ”まで近寄ると、突然両手を広げ、そのポケットを両手で挟み押し潰した。
パチンッというやけに軽い音。
彼が想像する人の手のような感触は無く、ただそこにポケットの生地があるだけだった。
「に、逃げられた!」
「良介、ごはんはいいの?」
母の気配が近づいてくる。
虫カゴの中に捕獲する。次こそは絶対に捕まえる。と良介は決心したのだった。
怒りに任せ“それ”に特攻した翌朝、通学前にこっそりクローゼットや物置きから可能な限り、ポケットの付いたジャケットを着用した。
部屋の床は上着だらけになったが、そのついでにポケットの中を入念に確認する。
「わっ! これもだ」
どうやら夢ではないらしい。
必ず、ポケットの中で誰かが自分の手に触れるのだ。
手の大きさは恐らく良介と同じ程度。性別は分からないが、人の温もりがあるので、“大丈夫”という根拠のない自信があった。
ポケットの手が、良介の手のひらを擽る。
「やめろ、くすぐったい」
はじめは子供ながらに不気味だと感じていた。だが、人間味に溢れた手の繫ぎ方で自分を励ますような仕草をするので、徐々に好奇心が勝り警戒心は薄れていった。
どんな仕組みなのだろう、と休日にジャケットを裏返し、ポケットの中を隅々まで確認したりもした。ポケットから片手が出た状態で、その先を覗き込もうとしたが全く正体が分からなかった。
手首から奥が、“いきどまり”なのだ。
その空間から、手が生えているとしか思えないのだ。
「まるでマジック。そこから生えてるの?」
「……」
その手は、挑発的にポケットの中でピースサインをしている。
少しだけ良介は悔しそうな表情だ。
「そうだ、これ、どこで作られたんだろう」
きっと、このジャケットを作った誰かがびっくりするような仕掛けを使って、自分を驚かせているのかもしれない。それだ、と確信した。
首元に縫い付けられたタグを確認すると、少なくとも良介にとってこれまで全く見たことのない文字が記されていた。矩形のような、線の強弱が印象的な、不思議な文字だ。
思えば、親にいつ、どこでこの上着を買ってもらったのか――どうしても思い出せない。
誰か、親戚の子のお下がりという可能性もある。
肝心なメーカー名や電話番号も分からない。読めないのでお手上げ状態だ。
「きっと、先生に言ったって信じてもらえないだろうし――。一体、君はなんなの?」
「……」
「――――喋れるわけ無いか」
試しに、興味本位でその手の甲を軽く抓ってみた。
「……!」
すると痛そうに五指をわしゃわしゃさせて暴れたあと、ポケットの謎の存在は姿を消してしまった。
「――痛かった? ご、ごめんなさい!」
この日から数日後、突然母が良介に音楽スクールへ通わないか、と部屋に来た。
駅前の大きな交差点の一角のビル内にある小さなスクールのようだった。
これまで一度も通いたいなんて伝えていなかった。当時は疑問だったが――“気味の悪い謎の見えない存在”から我が子を引き離すため、何か別のものに注意を引かせたいと思い立ったのかもしれない。
母の顔は、穏やかだった。怖いくらいに。
それから音楽のレッスンに通うことになったが、そのスクールがきっかけで、春とめぐり逢うことになる。
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