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三.忘却
長い年月が流れた。
その間に、父はどこかへ消えてしまった。
音楽スクールは、コンクール出場や様々な賞を個人的にも獲得していたが、とある理由で中学二年の頃に辞めてしまった。
良介は特に部活を始めるでもなく、学業に集中する毎日。合間にはファーストフード店でアルバイトをしながら多忙な日々を送っていた。
何やってるんだろうな、俺は。
数学の授業中、ペンを握る右手を見つめ呟いた。
心に、ぽっかりと穴が空いたように虚しさが募る。だがまた明日は来る。
もう、何年も歌っていない。歌い方すらも忘れてしまった。
幼少期、自分には歌しかない。そう思い励んで来たのに、と教室の自席から窓の向こうに見える雲のない空をただ、ずっと眺めていた。
なぜかこの頃から、ピアノの旋律が恋しくなっていた。
無難に学生生活を過ごし、製造業に就職が決まると一人暮らしをするために職場の近くのアパートに住み始めた。
引越しが終わり、入社式の準備に追われていた良介はネイビーのスーツをハンガーに掛け、衣類整理をしているところであった。
「ネクタイどこやったっけ――――あれ」
何気なくスーツのポケットを確認すると、自分で入れた覚えのない赤い包装紙のような断片が出てきた。
「――これ、花びら?」
気味が悪いと思いつつも、なぜかその赤色から目が離せない。
とても懐かしい。まるであの時のようだった。
「夕日――公園……」
何かを、誰かを忘れているような――。
ずっと自分を励ましてくれた数少ない存在がいたことを。
二年後、古い記憶などすっかり忘れてしまった良介に彼女ができた。
夏に誘われた合コンがきっかけで、少しだけシャイだが清楚で大人しくお淑やかな女性だ。
明日は、クリスマス。
街は華やかにライトアップされ、ショッピングモールのイベント広場には聖歌隊が集まり、楽しそうなクリスマスソングが響き渡っている。
今日は、彼女、レイカとの初デート。
普段より早めに起きて、準備万端にしていたはずが、待ち合わせ時間ギリギリになってしまった良介は、急ぎ足で自宅を後にした。
気温は低めだが、天気は晴れ。
焦って家を出たからだろう、額には汗が滲んでいる。
最寄りまでは徒歩で、そこからは地下鉄を乗り継いだ。
混み合った約束の場所で、なんとか彼女の姿を見つけ駆け寄る。
「ごめん、お待たせ」
「良介くん! いま来たところだよ。行こう」
彼女は、良介の顔を見るなり肩に擦り寄り、突然恋人繋ぎをしてきた。
指が絡まり、柔らかい肌からぬくもりが伝わる。人工的なネイルの感触が指に掠った。
突然向こうから手を繋いでくるとは予想外で動揺したが、それ以上の違和感が良介を襲った。
「――え」
彼女と会うまで心躍らせていたが、互いの手が触れた瞬間、ポケットの中にいた存在と、古い思い出を全て思い出した。
“彼の手”じゃない。
別人なのだから、当然である。だが何かがおかしい。
“思い出させられた”といったほうが正しいのかもしれない。
「寒いからポケットの中で手、繋ごう」
彼女が笑いながら言った。だが、信じられないことに、彼女の思考が手を通して嫌と言うほど頭の中に伝わって来たのだ。
内なる声が、良介の脳内へ濁流のように押し寄せる。
『逃さない逃さない逃さない逃さない』
その不穏で不気味な未知の体験に恐怖し、純粋な好意は急速に嫌悪感へと変化してしまった。
「ごめん、ちょっと待って」
「どうしたの」
レイカと繋いだ手が強引に黒いコートのポケットへと侵入してくる。
秘密がバレてしまう、と焦る良介。
その時、彼女の中にある記憶という情報の中に見覚えのある場所があった。
公園にいる良介と春がブランコを漕ぎながら、会話をしている。
その様子を木の後ろから覗き込み、二人を交互に追う視線があった。視界が落ちると、靴が見えた。
「あのスニーカー…………」
その視界、レイカは――あの日、良介の歌を馬鹿にした人物であったのだ。
「寄るな!」
「ねぇ、早くランチに行こう」
繋いだ手を勢いよく払い除け、青褪めた顔をしたまま、良介は彼女から後退する。
「“逃さない”ってなんだよ!」
レイカ、いいや、“彼”は良介の右手首を再び強引に掴み、離さない。
その目は、“当時”と同じものだった。
「そのままの意味だよ。ずっと探していた」
「お前、笠城だろ――騙されるかよ!」
春の優しさを注がれている良介に、幼少期から嫉妬していた、クラスメイト――そして音楽スクールでも同期であったのが彼だった。
「聴こえたんだね。あーあ、遂にバレちゃった。それよりさ――春をどこにやった」
華奢な体だが、それに反するかのような握力で胸ぐらを掴む。
「し、知らない!」
「嘘だ! お前は忘れてる――。もっと早く気付いていたら――“助かった”かもしれない」
「助かる? 春か、春に何かあったのか!」
「うるせェ! それか、俺が“その中に”に入ってもいいんだぞ。どうなるかは知らないが世界が食われるよりはマシだからな。いいや、ある意味その方が最善か」
笠城がコートのポケットを指さしながら言い放った。
意味不明な状態で、良介は、自分の記憶の中にいる春の姿を探した。
だが、中学生になってから、彼を一切目撃していないことに動揺しはじめる。
なぜ、今まで気が付かなかったのか。
忘れてなどいない。
彼は幼なじみ――、いいや、同級生?
彼は――誰だ。
「――アイツの進学先も連絡先も、何も、知らない。どこに住んでいたのかも」
「……馬鹿が。哀れなヤツ」
混乱する良介に冷ややかな視線を送り続ける笠城。その瞳は切なさを秘めていた。
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