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一.迷宮
人前で二度と歌うものか。ピアノの音すらも耳にしたくないと不貞腐れ、二日が経つ。
紺のランドセルを背負った少年が、歩道の真ん中で深く溜息をついた。家に帰れば、テストの成績や音楽スクール、進路の話を延々と聞かされる。
夏の眩しすぎた清々しい日々は過ぎ去り、もうじき秋が訪れようとしている。
薄灰色をした雲が空一面を覆い尽くし、今にも泣き出しそうだ。
『良介の歌、気持ち悪い』
悪戯に放たれた同級生からの言葉。
忘れようとするたびに怒りが込み上げ、ランドセルの肩ひもを握る手に力がこもった。
ほぼ毎日、学校帰りはそのまま音楽スクールへ通っていた。他校生徒との繋がりも増え、充実した日々を送り始めていた矢先の意地悪な言葉だった。
「おーーい、待ってってば!」
背後から少年の呼ぶ声がするが、良介は歩みを止めない。
「……」
「こら、シカトするな! 良介、止まれ! と、ま、れーー!」
彼の声と駆ける足音が、徐々に間を詰めて来る。良介は諦めたようにその場にピタッと立ち止まった。
うつむいた顔を上げ振り向くと、目の前には親友の春の姿があった。
「なんですぐ止まらないんだよ! 一緒帰ろうよ」
「うん。いいけど」
「あれ、泣いてるの? 何かあった?」
心配そうに良介の顔を見つめている。目は真剣だ。彼の同じ五年生の親友、春。
「べつに、なんでもない」
春がクスッと笑った。
「うそつき!」
「うっ」
どうやら全てお見通しらしい。春はいつもそうだ。だからこそ、話を聞いて欲しくなる。
二人は帰り道の途中にある小さな慣れ親しんだ公園へと向かった。
ブランコに座り、罪悪感に苛まれているような良介が静かに口を開いた。
こうして、いつも彼に甘えてばかり。
「――また、全部話しちゃった」
「大丈夫、平気」
「そっか」
「――良介の歌は上手だし気持ち悪くなんてないよ。そう言う向こうはさぁ、歌が上手なの?」
「僕の思った感じだと、たぶん、そ、そんなに……」
「そんなに、か。良介が上手なことが気に入らないんだろうね、その子!」
良介の口から、そのような言葉が出るとは思わなかったのだろう。春は笑いを堪えている。
「先生にお手本に歌ってみてって言われただけだったんだよ。しかもそれって、嫉妬ってことだよね」
「難しい言葉知ってるんだね。そう。だから、良介はもっと、もーーっと上手になったらいい。誰に何を言われても、応援する! 良介の歌、好きだもん!」
キラキラとした瞳で良介を見つめる春の様子に、分かりやすく照れる彼。
「――うん。ありがとう」
「どういたしまして」
ベンチに並ぶ二つのランドセルに反射した夕日の赤色が、名残惜しそうに光を放つ。
もう少し、あと一分、一秒だけ――と、日の傾きと共に静かに周囲の夜の中へと溶けてしまった。
すっかり元気になった良介は春と別れると、猛ダッシュで先を急いだ。
午後六時過ぎ。冷たい夜風が良介の頬を幾度も撫でる。
団地住宅の三階へ駆け上がり、ようやく氷壁のようなドアの前に到着した。
「……着いちゃったな」
彼には以前から“逃げ場所“があった。
歌うことができる空間と、もう一つはポケットの中だ。
いつも不安や緊張で悴む両手を温かく包み込んでくれる何の変哲もない平凡なポケットは、彼にとって特別で安らげる場所のひとつ。
右手をポケットから出し、冷え切ったドアノブに触れた。
「ただいま」
静かにドアを開く。
すぐ右には靴箱があり、壁との間にある傘立てにはくたびれたビニール傘が二本、ホコリまみれの黒い傘、それとは対照的な洒落た花柄の白い傘が見える。
ふわりと夕飯の香りが食欲を唆った。
「おかえり。きちんと手を洗うのよ。ご飯はチンしてね」
遅く帰宅したことを咎め心配するでもなく、淡々とした母の声が廊下の向こうから聞こえた。
「わかってる。子供じゃないんだけど!」
ランドセルを背負ったまま洗面台で手を洗い、うがいを済ませた。
鏡の前の自分は、目が少し赤く腫れていた。
「早く、大人になりたい」
また、ジャケットのポケットに手を潜らせてしまった。
“そこ”には、手を優しく握り返してくれる存在がいる。それだけで心強く、背中を後押ししてくれているような気持ちになるのだ。
今日は左のポケットの中に、“それ”が、いる。
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