葡萄畑を耕していた理由

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 百年以上経っている葡萄酒は、腐敗が始まっている可能性もあったが、蓋を開けると豊潤な香りが漂い、心配は杞憂に終わった。時間の経過を感じさせない、瑞々しい葡萄の香りが部屋いっぱいに広がる。  トマス司祭は葡萄酒を一杯飲んだだけで、酔いつぶれて眠ってしまった。どうやら酒に慣れていないようだ。シエロはそんなトマスを長椅子に寝かせ、自分はどこからか持ってきた銀製の(さかずき)で、葡萄酒を飲み始めている。  無言で酒を飲むシエロを見ながら、ネーヴェは暖炉に火を入れて葡萄酒で牛肉を煮込み始めた。  夕陽が部屋に射し込んで、壁を紅に染めている。  秋風が吹き込んで、淡い檸檬色のカーテンをさらさらと揺らした。  夜になる前に帰らなければと思ったけれど、静寂が心地よくて、いつまでもここにいたいと感じる。 「ネーヴェ」    シエロは顔を庭に向けたまま言った。 「俺は遅すぎたと思うか」  何にたいしてか、判然としない問いかけだった。  答えに(きゅう)してネーヴェは無言をつらぬく。 「フォレスタ王家が落ちぶれ、枯れていくのを、ただ見ているだけだった。その結果、災いを呼び寄せることになった」    もしかして、責任を感じているのだろうか。  そう気付いた時、ネーヴェは心胆が冷えるのを感じた。この国の危機に関して、彼は大勢から責められ嘆願される立場にある。そして、その地位から降りることは許されないのだ。  王子もネーヴェも、いざとなれば国を捨てて逃げることができる。だが、彼だけは逃げることが出来ない。 「葡萄の実は、若いうちに選別し、よく膨らむものだけを残さねばならない。人に対しても、そうすべきだったか」    権力者は、選ばなければならない。  誰を殺し、誰を救うかを。  全員を助けることは出来ないのだ。  そのことを知っているネーヴェだから、少しだけ、言えることがある。 「……そうすべきだとしても、そうしたいと誰も思いませんわ」    若い葡萄の実を摘む。あるかもしれない輝かしい未来を奪うことを想像し、心を痛める。それは人として当然の事だ。 「エミリオは本当に愚かだな。お前のような女なら、王者の痛みを分かち合うことが出来ただろうに」    あいつの血を引く者に、フォレスタを継いで欲しかった。  風に消えるような弱々しい声でシエロが呟いたのを、ネーヴェは聞かなかったことにした。
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