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柄にもなく、恐る恐る、シエロの様子を伺う。
すると、こちらを見つめる深海の眼差しと目があった。彼は予想外に、優しい瞳をしていた。その蒼眼は、サンレモの晴れた日の海のように穏やかだった。
「……お前の提案に感謝する」
シエロは、手に持っていた硝子の器をテーブルに置き、立ち上がる。
そして、ネーヴェから視線を外し、山の紅葉を見た。
「お前は、俺の立場を知らないから、そのように誘える。勘違いしないで欲しいが、それは、俺にとっては僥倖だ。久しぶりに、本当に久しぶりに愉快な気分になった」
「……」
「俺は共に行けないが、お前が声を掛けてくれたことは嬉しく思う」
やっぱり、断られてしまった。
これはネーヴェの戦略ミスだ。相手の出自も事情も知らず、ただ何となく誘ってしまったのだから。
残念な気持ちを表に出さないようにしながら、慎重に問いかける。
「シエロ様は、どうされるのですか?」
「俺は、この国の民を守る。はるか昔に、自分でそう決めた。これが俺の選んだ道だ」
清涼な秋の風が、ネーヴェと彼の間を冷やすように通り抜けた。
遠くを見据えるシエロの眼差しは澄んでおり、一点の曇りもない。
その姿勢は、ネーヴェをして畏怖させる威厳に満ちている。シエロの本当の立場は知らなくても、彼が尊い身分だと容易に想像できた。
人を真に高貴たらしめるのは、身分や血ではない。貴族や王族の血を引くから尊いのではなく、ただ、その責任を果たす在り方が尊いから、高貴なのだ。
彼は遥か遠くを見据え、途方もなく大きなものを守ろうとしている。その意思は、とても眩しいように思えた。
「お前は、安全な場所に行け。俺は王都に戻る。どうもきな臭い雰囲気になっているからな。収拾しなければならん」
「葡萄畑は、もうよろしいので?」
「もはや隠居している状況でもないからな。人によっては、遅すぎたと言うかもしれんが」
ぎりぎりまで、見守りたかったと、彼は呟く。
よく分からないが、彼なりの理由があって、葡萄畑を耕していたらしい。
王都に戻ると言うことは、やはり高位貴族だったということか。
「……シエロ様の行く道に、天の祝福があるよう祈っていますわ」
ネーヴェは、重い口を動かして、何とか別れの言葉を告げた。しかし、胸中はさまざまな想いが渦巻いている。彼の事情に、無闇に首を突っ込むべきではない。物分かりよく答えるのが正解だ。そう理性は言っているのに、感情はネーヴェの思い通りにならない。
きっと、洗濯が足りなかったから、物足りないのだ。
そうに違いない。
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