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──暗くて暖かい場所だと思った。そこは収まるには少々窮屈だが、決して冷たい地面に降りることはない。揺りかごのようなぬくもりだけが満ちている。このなかには爪の彩られていない君の手と部屋の鍵、そしてスマートフォン以外なにも入ってくることは無いし、僕の安寧を邪魔するものは居ない。帰るべき場所への鍵を探す君の温かい手が何よりも好きだった。
ヴーッ、ヴーッ。
スマートフォンが呼び出し音を伴って震える。
君の温かい手が、憩いの場所に触れる。そんなささやかな幸せを噛み締めるのが僕の毎日だった。
だが、ある日のある時、君のものじゃない手が僕の安らぎの場所に潜り込んできた。骨格のしっかりとした男の手。爪は短く切り揃えられ、よく手入れが行き届いている。君の手よりもひとまわり大きなその手は部屋の鍵を奪い去っていった。
ねえ、どういうこと。僕は暗闇のなかから君に問い掛けた。問い掛けた言葉は君の耳に届いている様子はない。やがて滑り込んできた君の爪には、赤くて可愛らしいネイルが施されていた。
ねえ、どういうこと。あれはだれ。
なんでここに君以外の手が入ってくるの。
ここは君と僕だけの場所じゃないの。
それから時折、男は僕の安寧の地に土足で踏み入るようになった。地面をさらい、壁に触れ、君の部屋の鍵を持って行く。僕はそれが堪らなく嫌だった。男の手が床をさらうたび怖気が走り、壁を触るたびに嫌悪で吐きそうになるのを必死で堪えていた。男の手が、僕を掠めそうになった時には叫び出したくなったものだ。
「──」
「──」
──外で会話が聞こえる。あの男と話しているんだろうか。ああ、寒気がする。吐きそうだ。前の君はここに誰かの手を招こうとしなかったし、爪だって何も塗っていなかった。大切なものしかここに入れなかったはずなのに。なんで。どうして。どうして。
『大好きだよ、ずっと一緒に居よう』
僕にそう言ってくれたのは、嘘だったのか。涙が出てきそうだ。昔の君は優しくて穏やかで何よりも綺麗だったのに。……君を嘘つきにしてしまったのは誰?
ああ。理由が欲しい、理由が欲しい。そうでなければ僕の感情の行き場が無くなってしまう。
──ふ、と。暗い世界に一筋の光が見えた。
同時に身体に浮遊感を覚える。
視界が眩い光に包まれて、くらむ。
「──」
気付けば僕は、君の優しい手に包まれていた。
……君の顔をじっくりと見たのはしばらくぶりだ、前よりも化粧が上手くなってますます綺麗さに磨きがかかってる。幼い頃に比べると眼に落ち着きが出てきて人間としての魅力も増した。誰よりもずっと見つめてきたから分かる。
君は長い睫毛を瞬かせてから、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「……この猫のキーホルダー、彼も大好きだって言ってくれて嬉しかったなぁ。昔から大事にしてきた子を好きでいてくれる人が居るってやっぱりいいね。
これからもずっと一緒に居ようね、大好きだよ」
……ああ、そうか。君は変わった。変わったけれど、変わっていない。根は純真無垢な少女のままだ。変わらないまま心が錆びついてしまったのは僕の方。止まった時間が心に降り積もって、すっかり固まってしまっていた。
だから僕は、前を向いたまなこに精一杯の感謝を込めた。君のこれからの未来に溢れんばかりの幸せと、願わくば僕を置いていてほしいと願って。
『ありがとう、大好きだよ。彼と幸せにね』
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