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 せりあがる嘔吐感によって目を覚ました僕は、冷たいカウンターに突っ伏していた身体を反転させ、バーチェアから崩れるように飛び降りた。急いでトイレに駆け込み、水っぽいだけの吐瀉物を便器の中にぶちまける。便座を掴み吐き続けていると、次第に心臓は千切れんばかりの痛みを伴い始める。皮膚の毛穴から黄ばんだ汗が噴き出しては視界がぎわぎわと暈ける。喉は逆流する胃酸の量に耐え切れなかったようで、胆汁と血液の混じり合ったグロテスクな唾ばかりが下唇を伝って蜘蛛の糸のように垂れ続けている。鼓膜を破ってしまうほどの脈拍と、脱水によって震えだす身体。こんな目に合うなら酒は呑まないと何度も誓ったはずだった。酒さえなければ、なんて、酒があってもなくても僕はきっとこうなのだ。冷静を劈く心拍数。眼尻には滲むだけの水滴。反芻する最悪な思想。しばらく個室で蹲っていると、外からドアをノックされた。仕方なく重い腰を上げてトイレから出る。客のいない薄闇の店内で、沙織(さおり)さんが水の注がれたグラスを持って心配そうにこちらを見ていた。僕はグラスを受け取ってカウンターへ戻る。冷たい水が喉に沁みた。背中がぐっしょりと濡れていてとにかく不愉快だった。 「梗也(きょうや)君、すごく魘されてたわ。また明日美(あすみ)ちゃんの夢?」  沙織さんがカウンター越しに淡い水色のレースハンカチを差し出しながら眉間を狭めている。 「気にしないでください。いつものことだから」  何十回と繰り返した夢。一人の女が炎に包まれる映像。いや、僕が観ていたのは夢などではなく記憶の欠片だ。あの日、相尾(そうび)明日美を殺したのは僕だ。途中で意識を取り戻してしまわぬよう、廃墟と化した教会で二人、サイレースをウイスキィで必死に流し込んだ。華奢で小さな身体には過剰な量の睡眠薬は、効用を守って彼女を深い眠りへと沈めた。抱き合う肉体。繋がれた指先。ホワイトガソリンの鼻腔をつく刺激臭。別れの言葉。愛の誓い。伏せたままの長い睫毛。祝福のチャペル。美しい横顔。僕だけが目を覚まさなければ全ては順調に終わるはずだった。バチバチと鳴る炎の合唱と、上昇する灼熱の温度によって僕は意識を取り戻した。自我を保った状態で焼死する己のシーンが鮮明に浮かび、灼け苦しむ少し先の未来をあろうことか土壇場で恐れた。明日美、起きてくれ。ダメだ、一人にしないでくれ。彼女の身体を強く揺すったが、僕の阿鼻叫喚程度では彼女が覚醒することはなかった。あまりに安らかな寝顔。きっと良い夢をみているのだとわかる。それでも僕は、なあ、やっぱりやり直そう、二人で居られるなら僕が何とか生きる術を模索してみるから、明日美、頼むから起きてくれ、明日美、明日美。彼女の両脇に腕を通し、一心不乱に引きずったが状況は絶望的だった。炎は明日美の衣服に引火し、刹那の如く彼女を食ってしまった。僕の右足が熱によって爛れ始め、気づけば発狂しながら僕だけが廃墟から脱出していた。ほんとに、何が起きたのかよくわからなかった。死にたがりの身分でありながら、生存本能というやつに僕は負けたのだろう。明日美の命が火の粉と化して夜空へ吸収されていく様を、離れた芝生上から眺めていた。尻で踏み潰した雑草。土を穿るように手のひらいっぱいに引き抜いて、空を切るように眼前へと投げ捨てた。業火に焼かれるべき僕の方が何故か冬の肌寒さに奥歯を軋ませているのが哀しくて堪らなかった。消防か、それとも救急か。無力で愚かな脳裡に過る手遅れの三文字。明日美の匂いが燃焼の木々に掻き消された時、僕は警察に電話をした。自首を告げた後の記憶はない。気が遠くなる現実を段々と受け入れると、僕自身の身体に取り込まれたサイレースが本領を発揮し、舌が痺れる真っ青な苦味と共に意識を失ったのだ。
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