3. 幻想の外持雨

2/4
前へ
/14ページ
次へ
「いい夜だな、少年。」  俺が声を掛けると、少年はニコリと微笑んだ。月明かりに照らされる少年の顔は、いつ見ても可憐で儚い。少年の瞳がほんのり赤く色付いているのを、俺は見逃さなかった。だが、ここは敢えて知らないふりをする。 「よく来たね、ルーザー。」  少年の声は優しく、暖かかった。初めはあんなに敵意剥き出しだった少年が、今では俺を歓迎してくれるようにまでなった。なんだかとても感慨深い。  だがこの通り、少年は俺のことを"ルーザー"と呼んでいる。俺の本名を知らないから、コードネームで呼び始めたのだ。名前を教えてないのは俺の方なのに、ルーザーと呼ばれる度、少しだけやるせなくなる。  俺の方は相変わらずの少年呼び。何度目かの逢瀬の時に少年の名前を尋ねたが、「君も教えてないから言わない。」と一蹴されてしまった。少年も"少年"と呼ばれることを気に食わないと思っているようだが、他に呼び方も思いつかないのだしそのまま呼んでいる。  本当は直ぐにでも俺の名前を教えて、少年の名前も知りたい。だけど俺の仕事柄、慎重にならざるを得ない。貧民街で暮らす俺の名前が一人の非力な少年に知れたところで、大して影響はないような気もするが。念には念を、とマスターにいつも教わってきた癖は抜けない。  いつか、名前で呼び合える日が来るだろう。 「それにしてもよく此処がわかったね。」 「なんだ、来ないで欲しかったか?」 「そうとは言ってない。」  少年は惚けたように話す。いつも通りとは少し違う気がするが、平然としている少年を見て一先ず安心した。そして、冗談で聞いた「来ないで欲しかったか?」がきちんと否定されたことにも安心した。自分で聞いといて、肯定されたらどうしようかと内心冷や冷やした。 「…寧ろ、会いたかったよ。」 「ん、なんか言ったか?」 「なんでもなーい。」  少年がぽつりと呟いたが、小さ過ぎて何て言ったのか聞き取ることができなかった。俺が聞き返しても間の伸びた返事をするだけだった。悪口でないといいのだけれど。  そこまで考えて、俺は少年に気に入られようと躍起になっていることに気がついた。最初はなんとなく殺したくないだけだったのに、いつの間にか仲良くなりたいと思うようになった。少年に怖がられないよう、嫌われないよう意識を張り巡らせる様子を以前の自分に見られたら笑い飛ばされそうだ。でも、今の方がずっと楽しい。 「ていうか任務帰りでしょ?血生臭くてやだよ。」 「ごめん、ついこのまま来ちまった。」  少年は態とらしく鼻を摘んで嫌そうな顔をした。急ぐあまり、自分の格好の醜悪さを忘れていた。少年に拒絶されるのではないかと思ったが、この反応ならまだ大丈夫そうだ。 「この格好のままじゃ流石に嫌だよな。でも着替えなんて持ってねぇし、どうしたもんか。」 「洗うといいよ。着いてきて。」  そう言うと、少年は森の奥の方へ歩いて行った。俺も黙って少年の後を着いていく。開けた場所まで行くと、そこには水底まで月明かりを透す、澄んだ池があった。まるで妖精が住んでいるかのような、夢幻的な光景だった。思わずため息をついて見惚れてしまう。この森には何度も来たことがあるのに、こんなにも美しい池があったとは知らなかった。いや、そもそもこんなところに池なんてあったか── 「ほら、早く洗いなよ。」  池に気を取られている俺を少年が急かす。俺は漸く現実に戻ってきた。本来の目的を思い出す。早速洗いたいところだが桶も何もない。服を池に突っ込むのが一番だが、この美しい池を穢らわしい血で濁してしまうのは躊躇われる。 「本当にこの池を使っていいのか?」 「いいでしょ。何か問題あるの?」  わざわざ少年が案内してくれたのに、ぐずぐずしてしまって申し訳ない。少年の所有池でもないのに、何故だか許可を求める形になってしまった。俺の問いかけに当然のように答えた少年は、首を傾げて不思議そうに見つめてくる。 「いや、綺麗すぎて汚してしまうのが申し訳なくなって。」 「この水は綺麗じゃないよ。」  少年は小さな声で呟いた。その声は悲しそうにも聞こえた。池の水は綺麗じゃない。そのままの意味だが、何故だかそれ以上の意味が込められているように感じた。俺は少年の言葉の真意が掴めなかった。  穢らわしい装いのまま動かない俺に痺れを切らしたのか、少年は形だけの考える素振りを見せた。それから閃きのポーズをとり、俺に提案する。 「そうだ。君が躊躇うんだったら、僕が突き落としてあげるっていうのはどう?」 「なんでそうなるんだよ。」  俺は思わず声に出して笑った。少年もつられて笑う。本気で突き落とすつもりなのだろうか。気づくと、少年がじわじわと近づいてきていた。きっと少年の非力では、俺を押してもびくともしないだろう。それでは面白くない。俺は少年の期待を裏切ってやろうと思った。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加