3. 幻想の外持雨

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「この馬鹿っ!!本当に飛び込む奴があるか!」  陸に引き上げられると、即座に少年の喚声が飛んで来る。俺は漸く呼吸の仕方を思い出した。水を飲んだ覚えはないのに、ひどく咳き込んでしまう。  俺は本当に溺れていたのか。実感が湧かなかった。溺れることはとても苦しいと聞いていたけれど、想像よりもずっと穏やかなものだった。少年を助けるつもりで来たのに、俺もかなり疲れていたみたいだ。沈んでいく時、俺が俺じゃないみたいだった。何もかも全て投げ出そうとしていた。 「泳げないのにどうして飛び込んだの。」 「俺は、泳げないわけじゃない。」  呼吸を整え、なんとか答える。喉が苦しい。少年は眉を顰めた。この顔は信じていないな。それも仕方ない。今しがた溺れていた奴からそんなことを言われても、意地を張っているようにしか見えないだろう。だが俺は本当に金槌ではない。俺の真剣な表情が伝わったのか、叱ることを諦めたのか、少年は口を開く。 「じゃあなんで。」 「思ったよりも、水の中が心地良かったから。池の水はやっぱり綺麗だった。」  考えていたことをそのまま口にする。深い意味はない。俺に正気を失わせる程の力が池にはあった。理由はわからない。もしかすると俺が壊れてしまっただけかもしれないが。  少年は目を丸くさせた。案の定、意味がわからないと呆れた顔をした。 「馬鹿だよ、もう。」  少年は小さく握った拳を俺に突き出す。弱々しいそれを、俺は優しく受け止めた。  少年は本気で心配してくれたのだろう。それがなんとも嬉しかった。少年にとって俺は、少なくとも死のうがどうでもいいほどの存在ではなかったようだ。溺れたのが誰であれ助けていたかもしれないが、そんなのどうでもよかった。  いくら見殺しにできないとはいえ、溺れている人を助けに自分も水に飛び込むということは、それなりに勇気がいるはずだ。俺は少年の果敢な行動に、素直に感服した。 「助けてくれてありがとな。」  俺は少年に微笑みかけた。他意なく感謝されたことが意外だったのか、少年は大きく目を見開いた。すぐにそっぽを向くと、小声でぼそぼそと喋る。 「別に、あそこで溺れられたら寝覚めが悪いし。」  少年は何やら考え事をしているようで、煮え切らない態度を取る。俺にはその意味が全くわからなかった。程なくして、少年は意を決したように拳を握った。正面から俺の目を捉えると、ビシッと人差し指を向ける。 「僕に生きろって言ったのは君だろう?だから僕も言わせてもらう。」  少年は悲しみと怒りが混ざったような顔をした。思わず身構えてしまう。次の言葉に全神経を集中させる。一呼吸して、少年がゆっくりと口を開く。 「ちゃんと生きて。」  少年のその一言は今まで聞いたどの言葉よりも力強く、思いが篭っていた。その言葉には確かに、ずっしりとした重みがあった。少年が本心で言ったからだろうか。俺が初めて言われたからだろうか。俺は人に生きてほしいと願われることが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。 「あれ、もしかして泣いてる?」 「髪から雫が落ちてきただけだ。」  俺の頬を暖かいものが伝っていく。止め処なく流れていく何か。もう手を当てなくてもわかっている。少年は俺の様子に気づくと、くすくすと笑った。  俺は乱暴に目を擦ると、少年を見上げた。少年はこちらを見下ろして微笑んでいる。その様子は儚く、まるで妖精のように思えた。手を伸ばすと空を切ってしまいそうだ。だけど、確かに少年は力強い手で俺の手を掴んだ。
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