1. 哀憐の慈雨

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 男を殺してる時から薄々感じていた。それは微々たるものであり、最初は気のせいかとも思ったが、次第に確証が持てるようになっていった。  ここ数日雨は降ってないのに泥濘(ぬかる)んでいた土。あまり時間が経っていないであろう足跡。何処からともなく感じる射抜くような鋭い視線。そして、天の声にそぐわず突如降ってきた雨。 ────直ぐ近くに何かが潜んでいる。  俺は辺りを見渡した。それはなかなか気配を消すのが上手く、見当が付けられなかった。雨のせいで視界も悪く、それらしきものは見つからない。目視での捜索を諦めようと思った。その時、闇に潜む二つの光と目が合った。それが人であると気づくのに、そう時間はかからなかった。瞬時に状況を理解すると、考えるよりも先に体が動く。俺の殺しを見た人間は絶対に生きて帰さない。何人たりとも───  強く地面を蹴り、一瞬で間合いを詰める。奴を押し倒して素早く上に跨り、首にナイフを突きつけた。瞬時に殺さなかったのは情けなどではなく、情報を吐かせるためだ。 「名乗れ。何が目的で俺を見ていた。何故ここがわかった。お前はスパイか?刺客か?ボスは誰だ。」  浮かび上がる疑問を一気に吐き出す。だが奴は黙りこくって石のように固まるだけだった。何か、俺が思っていたのとは違う気がする。俺に気付かれても即座に逃げなかったこと。抵抗する間もなく、すんなりと俺に組み敷かれたこと。小さく薄い体格であることを見ても、奴は偶然出くわしただけの一般人かもしれない。それにしては異様に上手い気配の消し方や、こんな時間にこんな森の奥深くにいたことの説明がつかないが。  黙り込む奴と考え込む俺。沈黙が続き、雨音だけが強くなっていく。勢いを増す雨の割に、雲は薄く少ない。流れる雲の隙間から月明かりが差し込み、奴を照らす。  俺は息を呑んだ。そこにいたのは刺客でもスパイでもなく、儚げな少女だった。無造作に肩まで伸びた柔らかい髪。穢れを知らない新雪のような肌。光を灯していない御空色(みそらいろ)の瞳。泣くのを必死に堪える幼子のような表情。顔を歪ませていても分かる、可憐な顔立ちだ。  俺は不思議な気持ちになった。女だろうが子供だろうが、一般人だろうが偶然だろうが、目撃してしまった者は殺そうと思っていたし、今までもそうしてきた。だのに何故だか、こいつは殺したくないと思った。その理由がわからなくて気持ちが悪かった。俺とこいつはたった今初めて会ったのに、この光景に既視感がある気がしてならない。俺は誰かとこいつを重ねているのか。答えが見つからなくて、険しい顔をしたまま少女を凝視してしまう。 「おい、なんとか言ったらどうなんだ。」  殺伐とした空気に耐えきれず、先に沈黙を破ったのは少女の方だった。見た目よりも些か低い声をしている。声は震えているくせに、口調は刺々しい。少女は返事を促すように、俺に鋭い視線を向ける。泣き出しそうな顔をしているにも関わらず、その瞳は乾いていた。 「お前、俺と会ったことあるか?」 「はぁ?君みたいなやつ、初めて会うに決まってるだろう。」  何か思い出す鍵になるかもしれないと思い聞いてみるも、攻撃的な言葉で返され苛立ちを覚えた。俺の方こそ、こんな奴会ったことがあったら覚えてるに決まっている。 「殺すなら早く殺してくれ。」 「言われなくてもそうするわ。」  抑揚なく少女は言った。少女に指図されるのが癪で、俺は心のこもらない声で返事をする。俺がナイフを大きく振りかぶると、少女は目を固く閉じた。だが俺は(すんで)の所でナイフを止めた。いつまで経ってもやってこない痛みに、少女は目を開けると驚いた顔をした。 「お前、むかつくわ。」  腹立たしい。俺に殺したくないと思わせる何かを持つ少女。こいつを殺せない俺にも怒りを感じる。行き場のない思いが体の中を巡って不快だ。如何にかしたくて、でも解決策が何も見つからない。とりあえず突きつけていたナイフを下ろし、少女の拘束を解いた。 「今回は見逃してやる。だが今日見たことを喋ったら命はないと思え。」  ここで無傷で帰したら殺し屋の掟を破ることになる。こう見えて割と覚悟を決めて言ったのだが、返事はない。未だ倒れたままの少女の顔を覗き込むと、呆気にとられているようだった。本気で殺されると思っていたのだろう。 「あー、ほら。無垢な少女を殺すのは躊躇われるからよ。」  中々動かない少女に痺れを切らす。このまま俺が何も言わなければ、一生動かないんじゃないかと思うほど固まっている。兎に角、生かしてやる理由を提示すれば納得して帰ると思い、口を衝いて出た言葉だ。自分で言っといて羞恥が込み上げてくる。頼むからさっさと帰ってくれ。  暫くして、ようやく少女は身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。顔を上げると、眉を顰めて俺を睨んだ。 「今更紳士ぶってるわけ?馬鹿じゃない?」  虚を衝かれた。今度は俺が石のように固まってしまう。無力でか弱いと思っていた少女が、殺し屋の俺を直接的に馬鹿にした。先刻俺が人を殺しているところを見たばかりなのに。ついさっきまで自分も襲われていたのに。見た目にそぐわず逞しい性格をしている。折角俺が見逃してあげようとしているのに、怖いもの知らずにも程がある。
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