第一話『台風コロッケ』

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「えーお客様にご連絡いたします。ただいま、台風接近の影響により電車が大幅に遅れております。ご利用のお客様に大変ご迷惑おかけいたしておりますが、もう少々お待ちください」 降ってきた声に思わず「えー……」と声が出てしまった。同じように周りの人たちも立ち尽くしているようで、「どうしよう」やら「歩くかー?」などと口々に話をしている。 今回ばかりは残業を長引かせた私が悪い。あれだけ後輩に気をつけろって言っていたのに、自分がこうなるなんて。明楽、怒るだろうなぁ。ぷんぷんと蒸気を吹き出している彼の姿を思い浮かべた。 「一応、タクシー見てみようかな」 何を言ってもこのままでは帰れないことは確定している。どうにかできる範囲で探してみよう。改札口に背を向け、タクシー乗り場へ向かった。 建物が守ってくれていた暴風は再び私に襲いかかり、せっかく整えたヘアスタイルはものの数秒でダメになった。しかも、遠くから見ても分かるほどタクシー乗り場には行列ができている。 ダメだ、いつ乗れるか分かったもんじゃない。バスも同じように行列ができているし、そもそも動いているのかも不明だ。 「……歩いたら何分くらいなんだろ」 ふと疑問に思ったことを口にした。自然とポケットに入れっぱなしにしていたスマホを取り出し、有名企業の地図アプリを開いた。自宅を登録しているので迷わず家の形をしたボタンを押すと、約四十分と表示される。四十分か。 まぁ、歩けない距離ではない。ただ、この風の中を歩くのかと考えると気が進まない。一旦建物の中へと避難して地図アプリと睨めっこをする。 「んー……でもなぁ、待っていたら本当に帰れなくなっちゃうし」 グネグネとした道ではなく、ほぼ真っ直ぐ進むだけに見える。これなら私でも平気かな。「歩くか」と一人で呟いた私はスマホをポケットに入れ直し、気持ち弱まった風を確認して歩き始めた。 独り言が多い私は今の部屋に住んでかなりの年数が経っている。一人暮らしが長いのもあるのか、何をするにも一人で何かしら呟いてそのまま動き始める。 友達には『一人で自己完結するな』と言われているのだが、無意識のため何を言っても無駄だ。それほどまでにこの行動は染み付いているし、たぶん実家のおばあちゃんの影響だろう。 「あ、この家はカレーだな?」 歩きはじめはビルが多かったのだが、家へ向かう方向へ歩くと住宅街へと変わって行った。それと同時にあちこちから夕飯の香りがする。すでに子供たちは食べているはずなので、私のような残業組がもう一度温めてもらっているのだろうか。ふんわりと香ってくるスパイスの香りにぐぅっとお腹が鳴った。 「うー……家まで耐えられる気がしない……」 仕事に集中している間はお腹が空いているとか、ほとんど気にならない。仕事に必要な段取りや後輩がしたミスのフォローなどで頭がいっぱいになる。月曜日なら尚更だ。まぁ、今日がその月曜日なのだけれど。 はぁ、と何度目かのため息を吐いているとブワッと背中からお腹へ突き抜けるような良い匂いがした。びゅうびゅう吹き荒れているから背中を押されたとかではない。今、食欲の塊になっている私にとっては強烈な誘惑。 まだまだ家が続いている中で、どこからこんな匂いがするのだろうか。周辺を見渡すが、特にこれと言って目立っているものはない。気のせい、だろうか。ピタッと止まった足をもう一度動き始めた。 「! やっぱり、コロッケの匂い!」 声に出して叫んでしまった。ハッとして誰かに見られていないかキョロキョロするが、この台風の中で外に出る物好きはいないらしい。ホッとしたのも束の間、もう一度お腹の奥底を直撃するような香りが通った。 「こんな所に惣菜屋さんなんてあったっけ……?」 普段は通らない道だが、五年以上は住んでいることもあり土地勘はある。いつの間にかお店が開いたのだろうか。一瞬だけ止まった暴風。その瞬間を見逃すことなく、あちこち匂いを嗅いで歩き回った。さながら、警察犬のようだ。
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