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「顧客二十万人のデータが入ったUSBだ。厳重に管理するように」
「承知致しました」
長身をぺこりと折り曲げ、黒いUSBを受け取る同期の佐々木。やる気と自信に満ちあふれた爽やかな笑顔が、俺のことをより一層惨めにさせる。
「見て。佐々木くんもう顧客管理任されてる」
「仕事めちゃくちゃできるもんねぇ」
佐々木と部長のやり取りを見ていたパート社員のこそこそ話が嫌でも耳に届き、エンターキーを叩く指に力が入る。
「……営業回り行ってきます」
「はーい、気をつけてねぇ」
デスクを立ち、戦績が常に更新されているホワイトボードを横目で見て事務所を後にする。佐々木は昨日も新たな契約を取り、トップの座をキープしていた。
× × ×
「うっぜー、今日も惨敗かよ」
くそったれ!と叫び散らしたい気持ちを抑えながら、今日も虚しく帰路につく。
こんな時に思い浮かぶのはやはり佐々木の顔だった。同期なのにどうしてこんなにも違うのだろう。
自分は三日に一回新規の顧客を獲得できればいい方だというのに、佐々木の業績は鰻登り。
憎たらしい。なんとしてでもあいつを引きずり下ろしたい。なんとしてでも……
気付けば無意識にポケットの中に右手を突っ込んでいた。
──出てこい。何か出てこい。
ごそごそと探っていると、手の甲に何かが触れる。
指でつまめるくらい小さなそれをゆっくりと取り出す。手を開くと、そこには見覚えのある黒いUSBがあった。
「これって……」
『顧客二十万人のデータが入ったUSBだ。厳重に管理するように』
今朝の光景を思い出し、途端に心臓がドクドクと波打つ。
超が付くほどの機密情報。もしこのUSBが無くなれば、全ての責任は管理者である佐々木が背負うことになる。
──もし今、これを捨ててしまえば佐々木はどうなる?
「……はは」
興奮に似た何かがじりじりと迫り上がってくる。俺はUSBを握りしめると、そのまま走り出した。絡まりそうになる足に鞭を打ち、東京湾が見渡せるゲートブリッジまで全速力で走る。
「はあ……はあ……」
息が上がる。のどが熱い。けれど、今から成し遂げることを想像したら興奮でどうにかなってしまいそうだった。
ゲートブリッジに着くと、俺は勢いのまま握っていたそれを東京湾に投げ捨てた。真っ黒の個体は夜に溶け、音も無く消え去っていく。一瞬の出来事だった。
「は、あはは、は」
あっけない。物事の終わりはいつだってあっけないのだ。
「ははっ、ふふふ、あは」
夜風が頬を撫でる。気持ちが良くて、思わず目を閉じた。
こんなに気分が高揚したのはいつぶりだろうか。鼻から思い切り外気を吸い込む。いつもなら憂鬱に感じる雨の匂いが、今日は心地好く思えた。
翌日、予想通り社内は大騒ぎだった。
『顧客二十人万のデータが入ったUSBを社員が紛失』
仕組まれた佐々木の大失態はその日の午後に全国ニュースでも大きく取り上げられていた。会社の電話は一日中鳴りっぱなしで、全社員がその対応に追われた。
「皆さん、申し訳ありませんでした」
青ざめながらなんとか謝罪の言葉を口にする佐々木。疲弊しきった社員たちは、ごみを見るような目で佐々木を睨んでいた。
期待された若きエースは、俺の手によっていとも簡単に失落した。
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