大人になって

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大人になって

「おい、奏良(そうら)、今日は誕生会をするぞ」 「五歳の誕生日おめでとう。お誕生日っていうのはこの世界に生まれた特別な日なんだから」 「ケーキおいしそう」 五歳になったばかりの少年の笑顔はあどけなくて、いつもニコニコしていた。 大学で生物学を学んだリンローは高校教師になった。 私は結婚する前から書いていた小説が結婚前に受賞して、晴れて小説家デビューを果たした。 小説を書くきっかけは空くんが亡くなったことで、私の気持ちをぶつける場所が文字でしかできなかったこと。 その発散場所はインターネットの世界で、小説として発表することだった。 ぽっかり空いたスキマ風を埋めるための手段が執筆活動。 自分の物語を読みたいと言ってくれる人がいる。 次の話を待ち望んでくれる人がたしかに存在している。 私は今、生きている意味を感じている。 死のうと思った経験も大切な人を失ったどん底の気持ちも、小説を書くための貴重な経験になった。 悲しい気持ちも束縛の辛さも全部小説の中に詰め込んだ。 人生何がきっかけになるかはわからない。 きっかけは空くんのことを形として忘れないように残したかった。 それが最初に書いた小説だった。 三人の青春小説。 泣ける青春ものとしてネットで人気を博した。 何者になれるさかもわからないと思っていたあの時。 自分が何かを生み出すなんて不可能だと思っていた。 でも、一歩踏み出すだけで何か変わるかもしれない。 リンローが高校卒業前に言った言葉だった。 辛いと思っていた時期があったから今がある。 感情を文字に込めて今、小説家としての想いを発信したい。 こんなちっぽけな自分にもできることがある。 人の心を動かす力が湧き上がる。 誰かを喜ばそうと、面白いものを創りたいという創作意欲が湧いてくる。 自己表現をする手段は無限だ。 魅影凛朗と有沢瑠理香は大学を卒業して、社会人になり、結婚した。 二人の間に男の子が生まれた。 その子の名前は奏良(そうら)。名前の由来は羽多野空。二人の大切な人の名前だ。 「ずっと三人で一緒にいたいよな。もし、おまえらが結婚したら、俺、子どもに生まれ変わるから」 「何言ってるの? 私たち、付き合ってもいないのに」 「俺が死んだら瑠理香のことを守れないだろ。だから、リンロー、お前に託すよ」 ベッドの上での会話だった。後日メールでも読んだけど、彼は本気で私たちのことを応援していた。 この頃には入院先のベッドでしか会話ができないくらい病気が悪化していた。 「俺、成人したばっかりなのに、長く生きられそうもないな。まるでカゲロウみたいだ」 「何言ってるんだよ」 「俺は、亜成虫期をおまえらと楽しく生きられたから。それで後悔はない」 声も弱弱しく、色白だった肌は最近更に透明感のある白色になっていた。顔色は悪く、手足は痩せたことと筋力の低下で更に細くなっていた。後悔はないって。そんなの嘘だと思う。後悔なんて、絶対あると思う。だって、生きられないことは辛い。死への後悔が絶対に存在しているはずだ。でも、空くんはいつも前向きで、笑顔を最期まで絶やさない人だった。まるで音楽を奏でるかのように――。 空と奏良。似ているけど、違う人間だ。 素敵な良い音楽を奏でるかのように笑って生きてほしい。 これが名前の由来。 奏良が大人になったら、名前の由来を教えよう。 私たちには素晴らしい親友がいたという事実を。 人生を変えてくれたという事実を。 生まれ変わりなんていう制度があるかなんて知らない。 でも、私たちは故人の姿をどこかにあると信じてしまう。 それが、魂なのかもしれないし、記憶や想い出なのかもしれない。 前世の記憶なんてないのだから、生きている人の記憶の中で生きるしかないのかもしれない。 空に向かっていつも思う。 私は二種類の恋愛をしたのだと。 はかなげな色白の空くんの雰囲気に惹かれた高校時代の私。 ずっと前からそばで見守ってくれていた人の愛に気づいて、大学生になって交際して、その後、結婚した私。 もしかしたら、空くんとは違う形だけれど、ずっと前からリンローのことは好きだったのかもしれない。今があるのは、屋上で「友達になろう」と声を掛けてくれた、手を差し伸べてくれた羽多野空がいたから。 軽蔑することなく物おじすることなく接してくれた優しい心があったから。 あの時、偶然屋上にいたのだろうか。もし、偶然だとしたら神様とやらのいたずらのような気がする。 あの時、飛び降りようなんて馬鹿なことをしたから私たちは繋がった。きっとこの先、想像もしない運命が待っている。 でも、それを生み出すのはまぎれもなく自分自身だ。 私たちは彼のことを絶対に忘れない。 命を救ってくれた人。価値観を変えてくれた人。学校を楽しい場所に変えてくれた人。 私は事実から目を逸らし、彼のことを心から消そうとしていた。彼はこの世から消えたけれど、私の中で生きている。だって――とてもとても大切な人だから。
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