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先輩と受付嬢の話4
それから三ヶ月。二ヶ月目にはいきなりキスをされたけど、それも嫌じゃなかった。この人、本当に想像の上を行くなと思ったけれどそれだけで終わった。終わったから安心した。拒否がない。自分にもコントロールできない部分が許してくれている。だからこの人で大丈夫とその時は思った。
そして今日。二人でお泊りに来てしまっている訳ですが。
「ちょっとお話があるんですけど」
「…はい」
はぁー…。と、深呼吸をして口を開いた。
「あの…今日、そ…そういうこと、するつもり、ですよね?」
いじいじ。と、お布団を摘まみながら言った。これで分かりますよね? 先輩。
「…えーっと…」
一方、先輩はその返事を考えたらしい。ただ、あっさりと答えてくれた。
「まぁ、したいと思う気持ちはあるけど、無理ならそれで」
あ。良いんだ。そうですか。でも、それじゃ問題は解決しないんです。
「体調悪いの?」
「ううん」
ぶんぶんと首を横に振った。そして真っ赤な顔を浴衣の袖で隠しながら小さな震える声で告白する。
「あの…先輩、多分引くと思うんですけど…」
顔見れないや。このまま話そう。
「私、その……経験が、無くて…」
もう二十七歳で、こう言っては何だけど今時の格好をしている自覚もある。性格だって大人しい訳じゃない。でも、そういう事をした事が無い。誰にも言った事ないし、仲の良い友達ですらそんな事は思っていないだろう。きっと皆、勝手に想像している。自分を見て。
だからこの人しか知らない。本当の事。
「…え?」
やがてそんな声が聞こえてきた。驚いてる。けど、ただそれだけだ。茶化したり引いたりする気配はない。
「…あれ? でも彼氏いたんじゃないの?」
「いたけど…」
高校の時に二人。大学の時に一人。でも、誰も長くは続かなかった。そういう事を興味とか当たり前のようにしたがったけれど、それが嫌で別れた。だから誰も二ヶ月ももっていない。
でも、この人とはここまで来てしまった。今回どうにかしたって、この先も一緒にいるなら絶対にどこかでばれる。逃げられないなら向き合うしかない。
それしか言えなかったけれど、その先を根掘り葉掘り聞かれることは無かった。聞かれたくなかったし、それを分かってくれたんだろう。
「そういうこと、したくないってこと?」
「…今迄の相手とは…うん」
「…俺は?」
そう聞かれても分からない。したい、とは思わない。だって知らないから。でも、したくないのかと聞かれるとそれも分からない。ただ、怖い。
「分かんない」
その返事に、先輩が少し動いた気配を感じた。近付いたのか遠ざかったのか分からない。まぁ、これで終わるとしてもそれで。と、最悪な事を考えた。この人は多分無理やりすることは無いだろう。そう思いながら泣きそうになる。自分はこの先、まともな恋愛をできるのかな。
「篠井さん」
さっきよりも近くに先輩がいる。そして手を出した。
「触るのは平気なの?」
それくらいなら、まぁ。と、その手に手を重ねた。手を繋いで歩くようなこともあまりしなかった。でも、それは嫌だったからじゃない。
「大丈夫?」
「…うん」
「キスは?」
もうしたくせに。と、思った。でも嫌じゃなかったの。だから大丈夫。
頷いたらあの日の様にキスをしてくれる。これで二回目。この人は手が早いのか遅いのか分からない。
そのまま髪を撫でるように抱き締めてくれて先輩は言った。
「教えてくれてありがとう。俺、本当に篠井さんの事好きだからそういう事をしたいとは思うけど、そういう行為が嫌なら無理しなくていいよ。それが重荷になる位なら、そういう事しないで側にいてくれる方が良い」
でも、それすらも分からないの。それに本当にそれで良いの?
「分からないって言うなら試してみる? 嫌なら止めればいいし、言ってくれれば聞くから」
そうだよね。やってみなければ分からない。でも、男の人ってそういう事好きでしょう? それでぎくしゃくするのも嫌。
「試すのも嫌なら、正直にそう言っていいよ」
「…でも、それって先輩だけが辛いでしょ…」
「優しいね。篠井さん」
笑って先輩が離れた。ちょっと体が寒くなる。あのまま抱き締めていて欲しかったな。
「でもさ。俺が大丈夫って言ってるんだから甘えなよ。篠井さんが今までできなかったのは、行為に嫌悪がある訳じゃないなら許せる人じゃなかったからじゃないの? ちゃんと自分を守り続けたんだから大事にしなきゃ駄目だよ」
先輩の言う通りだ。この人じゃない。この人とはしたくないって誘われても逃げ続けた。
じゃあ、この人ならって思ったら? 先輩は私の「この人」なんだろうか。分からない。けど、否定もできない。
「…先輩」
「ん?」
「…ちょっと…だけ」
してみて。と、呟いた。先輩を試したい。この人なのか確認したい。その後の事は後で考えよう。先輩が言った通り、甘えてみよう。駄目なら駄目でも良い。
「…ええ…と」
その自分に戸惑った様な声が聞こえる。それから先輩の静かな声が聞こえてきた。
「明かりどうする? このままで良い?」
「やだ」
「…じゃあ、ちょっと待って…」
そう言って立ち上がって明かりを弱くしてくれる。怖い筈なのにほっとした。これならはっきりは見えない。
「…本当に良いの?」
「…うん」
駄目だったらごめんなさい。でも、先輩とは試してみたいの。
頬に先輩の温かい手が触れて、顔を上げさせられて口を塞がれた。優しいけれど長いキスは、眩暈がする程刺激が強い。
ぎゅう。と抱き締められて首に触れた先輩の髪に気付いた。くすぐったいと思ったら首に柔らかいものが触れる。体が痺れて震えた。どうしよう。怖いよりも変な気分。
浴衣が乱れて肩がひんやりとした空気に触れた。そこにも先輩が触れる。止めていた息が苦しい。相手がしている様に、自分も先輩の肩に顔を伏せて小さく呼吸を繰り返した。大きくてかたい感触に泣きそうになる。男の人って全然違う。
「…横になれる?」
「ん……う…うん…」
耳元で聞こえた声に異常な程体が震えた。この先触れられて大丈夫かな。声が不意に聞こえてくるのも怖い。
でも横になって少し安心した。そう思っていた体に先輩の舌が触れる。
「あ…」
必死にシーツを握り締めた。ほんの僅かな拠り所でも欲しい。何も無かったら耐えられる気がしない。
「……ん、ん…」
先輩の手が体に触れて、浴衣がどんどん脱がされていく。視界が暗いから安心する。きっとこんなに情けない自分の表情ははっきり見えていない。相手の表情も見えない。ただ、息づかいの音と熱が耳に伝わってきた。
信じられないけど、そのままあっという間に最後までできた。沢山触れてくれた後、先輩に確認されて頷いた。凄く痛かったのにどうしてもここを越えたかった。気持ちいいとか、次もしたいかなんて分からない。ただ、その場で肌以上に先輩に近付いて貰えればそれで良かった。
とん、とん。と、自分の体に静かな振動が伝わってくる。…あれ。私何歳だっけ?
布団にくるまった自分の肩を、あれから先輩は寝かしつけるように叩いてくれていた。安心する。けど眠れない。眠いのに。
「…先輩」
「ん?」
その声にどきっとした。男の人の声。でも、凄く静かで優しい。
こんな時間にこんな場所に二人。この人に抱かれたんだと目しか出ていなかった顔をもう少しだけ隠した。とんとんしてくれているけれど先輩と距離は少し離れてる。多分、先輩は別の布団で寝るだろう。今だけちょっとこっちにいるけど。
先輩がしてくれること、全部安心する。
「…一つ、聞いても良いですか」
「何?」
「…何であの時キスしたの?」
皆で遊んだ帰り。車で。
それまでもそれからもずっと触れてこなかったのに、どうしてあの時だけ? でも、あれが無かったら今日も踏み出せたか分からなかった。キスは? と聞かれた時に自分は大丈夫と答えられたか分からない。
「篠井さんが、青井に彼氏がいるって言ったって聞いたから」
「…?」
「彼氏として認めてくれたのかなーと思って」
その時には、既にこの旅行は決まっていた。それなのにそんな事を思うんだ。
この人は、ごめんなさい。と言ったらきっと本当にずっと手を出さないでいてくれただろうな。それでも側にいてくれただろうな。そう思ったら安心して眠りに落ちた。
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