サイン馬券

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振り込まれた少ない給料を持って京都競馬場へ向かう。そう今日はシンザン記念がある。世間は今日を成人の日と認識するが俺は違う。今日は名馬シンザンの名を冠するレースがある日だ。成人の日などすでに成人を迎えた俺にとってはどうでもよい。 シンザン記念の本命は二番人気のショーマンフリート。新馬戦からの一目ぼれ。モレイラの足を余さない騎乗もあってか素晴らしい名馬に見えた。今年のダービー馬になるとも思える名馬の素質がその毛艶、体格、そして雰囲気から感じられた。 「鞍上が戸崎ってのがなぁ」 それとなくつぶやいた不満は観客という有象無象に消えていった。俺はショーマンフリートの単複4万を買い、発走を待つ。なんとなく辺りを見回すとスタンドにちらつく違和感に気づいた。冷静に見えて、焦りのようなものを孕んだ動きをするものがそこにはあった。 「女?」 ついつい口からそんな言葉がでた。容姿が整い、小綺麗なおおよそ競馬場には不釣り合いの女がいた。 「競馬はアイネスフウジンが勝ったあの日の日本ダービーを境に大衆から「賭博」ではなく「スポーツ」と認められた。それから、競馬場は歯のないジジイから女子供まで広い層の人間が存在する混沌とした空間になっちまった。だから俺は今の競馬が嫌いなんだ。競馬はどこまで行っても賭博だ。」 数年前に死んだ祖父のそんな言葉が思い出された。もちろん競馬場には老若男女問わず、様々な人間がいる。しかし、決まって女は連れと、子供は親と来ているものだ。まして、今日のようなG1でもないただの重賞レースであれば、その色は一層濃くなる。そんな俺の固定観念が一人でスタンドを歩くその女に違和感を持たせていたのだ。だが、このように女が一人でスタンドを歩いている時はどこかでレースを見ている彼氏を探しているものだ。今回もどうせそのパターンだ。 「五郎くん!」 喜色を帯びたそんな声が女の口から発せられる。やっぱりな。誰に自慢するでもないが予想が当たった俺は自慢げな気分だ。この分じゃ今日のレースはもらったな。女はこちらの方へ近づいてくる。奇遇にもこの女の連れもこの辺にいるらしい。この辺りはレースの全貌が良く見える、言わば知る人ぞ知る京都競馬場の「名所」だ。この女の連れはどうやらセンスがいいらしい。 「五郎くんってば!」 女は俺の前で止まり、声を上げる。 「ずっと探してたんだよ?どうして急にいなくなったの!」 喜怒哀楽。女の言葉にはその全ての感情が入っているようだ。そして女の言葉の矛先はどうやら俺に向いているらしい。 「えぇと。君は誰かな?僕は君が言う五郎くんとやらではないんだけど。人違いじゃないかな?」 俺は今年で28になる。年下と見えるこの女に大人の余裕を見せるために動揺を隠しながら冷静に答えた。 「人違い?とぼけなきゃいけない理由があるのね。他に女の子でもできたんでしょ。そうなんでしょ。」 女の声は予想外にも悲しみの色を強く帯びて放たれた。俺は女と付き合ったことはないが男に浮気を追及する時、女は激情するものだと思っている。が、どうもこの女は違うらしい。俺が五郎くんかどうかという論争は俺が免許証を見せることで終わりを迎えた。 「人違いでご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ないです。でも、あまりにも私の知り合いに似ていたもので。勘違いで声を荒げてしまいました。本当に申し訳ないです。」 彼女は心底申し訳なさそうに何度も頭を下げた。しかし、俺は彼女の謝罪よりも彼女がシンザン記念の馬券を買ったのか、買ったとしたらどういう買い目なのかということの方に気が向いていた。 「そんなに頭を下げなくていいって。そんなことより早く五郎くんとやらのもとに行った方がいいんじゃないかな。きっと君が何をしているのか心配しているよ。それに、今この場面を五郎くんに見られたら厄介なことになるだろう?」 買い目だけに目が行くクズだと思われたくはないし、面倒事もごめんだったので表面上ではあるが彼女を気遣ってやった。 「あぁ、その心配はないですよ。五郎くんがここに来ているかどうかは私にも分かりませんから。」 「ここ」とは京都競馬場のことだろう。それに来ているか分からないとは?そう思いながら彼女の話に耳を傾ける。 「五郎くんは私が付き合っていた人です。同棲してたんですけど、ある日を境に帰ってこなくなっちゃって。ようは捨てられちゃったんです、私。」 つらい話のはずだが、彼女は思い出を振り返るような温かい口調で話す。 「彼、よく私をここに連れてきてくれたんです。だから、毎週ここに通えばいつかはあえるんじゃないかって。そう思うんです。」 なるほど。今の時代に女のもとから突然消える男もいるのだな。そう思いながら彼女に話を合わせる。 「五郎くんは競馬が好きだったのかい?」 彼女は口元に少し手をやって微笑みながら答える。 「それはもう、週末が近づくと競馬新聞とにらめっこですよ。私の呼びかけにもまともに応答してくれないし、競馬に妬いていた時期もあります。五郎くんは私よりも馬の方が好きだったのかもしれないですね。」 「なるほどね。で、いつから”これ”を続けているんだい?君の年齢からするとまさか5年前からということはあるまいね?2年くらいかな?」 少し不機嫌そうな具合で彼女は口を答える。 「私ってそんなに幼く見えますか?一応、今年で25になりますけど。まぁいいや。4年前からですよ。4年前のこのレースです。」 「四年前か。中々に一途だね。あと、幼いとは言ってないよ。気に障ったなら申し訳ない。ちなみに俺は28だ。」 このレースってのはシンザン記念のことか。健気に彼氏を探して今日で四周年ってわけだ。そこまで思われる五郎くんとやらは相当な幸せ者だろう。そんなことを思いながらふと彼女の手元に目をやると、左手の人差し指と親指の間に勝ち馬投票券を見つけた。なるほど。彼氏探しといいながら、結局この女も競馬の「賭博」という側面に魅入られてしまったわけだ。そう思うといきなり目の前にいる女が下劣に見えてくる。こいつも俺と同類なんだな。俺の心が悪意を持って女に牙をむく。 「しかし、五郎くんを探しているといいながらも君の興味は競馬に向いているみたいだね。馬券を買っているじゃないか。どれ、その左手にある馬券を見せてくれよ。」 女は俺の悪意など意に介さず、すんなりと馬券を見せる。5ー6の馬連100円。三番人気の五番ノーブルロジャーと十番人気の六番ラーンザロープスにこの女は夢を託したらしい。ショーマンフリートを本命に据えた俺としてはこの二頭を切れる理由を言ってやりたかったが、まずは彼女の買い目の理由が聞きたかった。 「君はなんで5ー6の馬連を?ぜひ理由を聞かせてくれ。」 女は少し戸惑いの色を見せたが、一息ついてこう答えた。 「実は私、競馬のことあまり分かってないんですよね。だから、この5ー6の馬連っていうのもあんまり理由はないんですよ。」 「にしても、何かしら理由はあるだろう。好きな馬だからとか名前が良いとかそんなものでも、もちろん儲けが大きいからとかいう理由でも構わない。」 「言わなきゃだめですか?」 「勉強のためにも教えてほしい。」 女の頬が少し紅潮したように見える。そして重々しそうに女は口を開く。 「語呂合わせです、、、」 「語呂合わせ?」 俺の頭に疑問符が浮かぶ。 「ほら、五郎くんの五郎って、5と6の語呂合わせができるじゃないですか。だから、毎回5と6の馬券を買っているんです。」 俺はその理由にあきれ返ると同時に、五郎くんとやらに対する嫉妬心が湧いてきた。こんなにも一途に思ってくれる女性を何故、彼は捨ててしまったのか。同じ男としては理解に苦しむものだ。そして、彼女に対する申し訳なさも湧いてきた。彼女は決して下劣な人間ではなかった。会えるかもわからない男に対して思いを馳せる美しい少女の心を持った人間だった。 「買い目の理由は愛ってわけか。五郎くんは幸せ者だね。しかし、常にこの買い方をしてちゃ儲けは期待できないよ。」 彼女はフフッと笑い答える。 「この買い方は私にとってのおまじないなんです。五郎くんとまた会えますようにっていうおまじない。だから勝てるか勝てないかはどうでもいいんです。」 こういう心を持って競馬をする人もいるのだなと感心させられた。じいちゃん、やっぱり競馬は「賭博」かもしれない。でもこんな綺麗な思いをもった そうこうしているうちに発送の時刻になった。聞きなれたファンファーレ、まばらな手拍子、G3ということもあってかそれほど大きくない歓声。「あぁ、やはりここが俺の居場所だ」そんな気持ちが俺の心を満たした。 「ショーマンフリート、勝てるといいですね。」 「俺の勝ちを祈ってどうする。俺が負けなきゃ君は勝てないよ。」 本当に競馬に向いていない子だなと思わされる。そもそも、競馬は自分の賭けた馬が勝つことよりも賭けた馬以外が負けることを祈る方が多い。競馬場に限らず、WINSや競馬の放送が行われている街頭のテレビ周りでも「差せ」や「残れ」の声よりも「○○いらん」の声の方が多い印象だ。有馬記念をWINSで見届けた私の心には引退を迎えるタイトルホルダーに対する、観客の「タイトルいらん」という声が残っている。 全ての馬がゲートに収まる。いよいよ始まる。 ガコン ゲートが小気味良い音を立てて開き、緑の大海原へ全馬が足を踏み出す。ほぼ揃ったスタート。ゼルトザームが間を割って先頭に立ち、後続が続く。彼女がおまじないを賭けたラーンザロープスは先行集団、ノーブルロジャーは控えて中団に位置していた。対して、私のショーマンフリートも中団につけ、足を溜める展開。600m34.3秒という平均ペース。これといった動きもなくゼルトザームが全馬を引き連れて最後の直線に入る。ノーブルロジャーの溜めに溜めた足が彼女のおまじないを乗せて一気に爆発する。 「差せショーマン!」 「頑張って!」 スタンドの歓声とともに俺も彼女も叫ぶ。結果はノーブルロジャーが外から他馬を抜き去り、二着に1と1/4馬身差をつけ、完勝。対して、俺の願いをのせたショーマンフリートは願いが重すぎたのか分からないが、直線で伸びず、5着。馬券になったのは5,13,14。17番人気のウォーターリヒトが三着に食い込む中々波乱の色が強いレースだった。 「今年の戸崎はダメそうだな。去年に引き続き川田とルメール買っとけばいいってか。つまんねぇなぁ。」 そんなことをつぶやいてしょげる俺を尻目に彼女は嬉しそうに声を上げる。 「やったやった。五番が勝ちましたよ。」 4万負けたそばで喜ばれるのは結構来るものがある。それもあってか自分でも分かるくらい意地悪そうにこう言ってやった。 「五番は来たけど、六番は来なかったね。これじゃあ馬券にはならないな。」 全く良い性格をしていると自分でもあきれてしまうが、この発言の裏に潜む悪意も彼女の前では無駄だった。 「言ったじゃないですか。勝ち負けはどうでもいいって。もちろん当たったら嬉しいですよ。でも今回みたいに片方だけ1着か2着に食い込んできても五郎くんの片足に手が届いたような気分になって嬉しくなるんです。あとちょっとで会えるかもって思えるんです。それがあるから私は頑張れるんです。」 最終レースの4歳以上2勝クラスを見てから俺と彼女は家路についた。俺は徒歩で、彼女は淀駅から電車で向かう。 「また会えるといいですね。」 「また五郎くんに間違われるのはごめんだよ。」 互いに笑いながら京都競馬場を後にした。陳腐な物語ならここで二人が恋仲になるのが定番だろうが、現実はそう甘くない。彼女はこれからも五郎くんを思い続けるし、俺は競馬に思いを馳せる。たとえ俺が彼女に特別な感情を抱いていたとしても「五郎くんのことは忘れて、俺と生きよう」などという彼女の四年間を否定する残酷なことは言えない。 ただ、間違いなく俺は彼女が五郎くんに再び会えることを、そしてショーマンフリートがモレイラと再び逢えることを夢見ている。
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