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誓いの音節(1)
ギルバードが稽古場に行っているちょうどその頃。
アランは離宮のベッドに上がり、左膝と左腕でライラを横抱きに支える格好で右手に持った報告書類の束に目を通していた。
それはまるで溺愛する人形と片時も離れまいとするかのような一種異様にも見える光景。
しかし執務室ではなく離宮でこうして書類を読むということはアランの中で最早習慣化されつつあった。
【逆さ十字のプレートに関する報告(要旨)】
コルトナ男爵の屋敷で押収されたプレート(以下A)について。素材は火成岩。神力の形跡なし。王都および各領地で聞き込み調査を行った結果シュレーターに関連付ける有力な情報は得られなかった。このことからAはシュレーターの活動とは無関係の物品である可能性が浮上している。
「コルトナ男爵の個人的な持ち物だとして出どころはどこだ......まさか手作りなんてことは.........」
ぶつぶつと呟く。
「ライラ、逆さ十字を知らないか」
返事はなくとも時折話し掛ける。
これも習慣づいている。
【ブラニスの探知状況に関する報告(要旨)】
王太子妃暗殺未遂事件以降、三ヶ月の間ブラニスの気配はなくキメラの出現もなし。先の一件で敵の戦力が大幅に削られたと仮定した場合、戦力補充のためブラニス作成や死者復活の儀およびキメラ作出が活発化すると考えられる。行方不明者リストを作成の上、隔日更新し誘拐と見られる事案について調査を実施中。
「......君が寝ている間に解決したかったが、そうもいかなそうだ」
全体的に後手に回っている。
書類を閉じてベッド横の机に置く。
ライラはふわふわとした豪奢なネグリジェを着て、薄い寝化粧ですやすやと眠る。
綺麗な装いも化粧も、寝ている人間には不要だとアランは思う。しかしメイドのアンナはそうは思わないらしく、アランが来るよりも前の時間―――夜が明けてすぐの時間に起き出してきては毎日健気に主人の身なりを整えていた。
「.....他国に連れて行きたくない」
やるせないため息をつく。
神殿から春の乙女を再選するとの報せが舞い込んできた時、アランは困惑しつつも喜びを感じていた。度重なるマリアンナの執務室訪問から解放されるというのもそうだが、もしライラが選ばれれば一緒に行動する機会が増え、自然と心の距離を縮められるのではと思った。
しかしそんな浮き足立つ気持ちはすぐに消え、ライラに降りかかるかもしれない身の危険や本人が感じるであろうストレスを想像して憂鬱になった。
また、たとえ婚約者として連れていったとしても他国にはアルゴンの倫理観が通用しない者もいるかもしれない。そう思うと気が重く、今から嫌な物思いをしてしまっていた。
立てている膝をわずかにずらすとライラはアランの胸元にこてんと頭を傾げて預け、アランは物思いも忘れて思わず微笑み、あどけない寝顔を眺める。
去年の成人の儀の時点ではここまで関わりを持つことになろうとは思っていなかった。セーブルにはいろいろと文句を言われたが、あの日神殿に行った自分の行動力を褒めてやりたい。
「ライラ、いつまで寝ている」
不毛な問い。
ただ眠るだけの白い貌。
指先で白い頬をつつくと低い体温を感じてしまいすぐに離す。所在なく浮いた手で銀の髪に触れて指を絡ませ、梳くように撫でる。
「ライラ、俺は―――」
瞳を伏せて一瞬ためらってから、
「俺は、君のことが.....................うん」
言ったそばから情けなくなって額を押さえた。
「うん」はない、さすがに。
改めて。
「つまり......君の気が強いところも、たまに目つきが悪くて怒るとすぐ頬をふくらますのも、弓を引く姿勢も全部、なにもかもが............」
以前はあれだけ怒ったり赤くなったりしていた顔も今は安らかなまま、固く閉ざされた双眸もぴくりとも動かない。
思い出を回想する場合、一般的な令嬢であれば笑顔が思い出されるのだろう。でもライラに関しては真顔や怒っている顔やイヤそうな顔ばかりで。
それでも思い出せばすべて可愛く、愛おしいと思ってしまう。
金の瞳を揺らして深呼吸をする。
今一度、意を決して。
「...............君が好きだ」
言えた。
やっと。
口にしてしまえばなんのことはない単純な音節。
しかしアランにとってはずっと忌避してきたフレーズだった。
暫しなにも言わずに沈黙する。
舌に残る語感を味わいながらライラを見下ろすが、やはり反応は返らない。
死んだように穏やかに眠り続ける。
「っ......ごめん」
口をついて出る謝罪に続いて後悔と愛惜の念がどっと胸に押し寄せてきた。華奢な体を強く抱きしめ、溢れる想いを言葉に変える。
「好きだ。愛してる」
我が身の不甲斐なさにうち震える。
せめてあの日に言うことができていたならば。
そうすればこんなにも後悔しなくて済んだろうに。
知れば君は怒るだろうか。
女性を愛したこともマトモに付き合ったこともないせいで、君を好きかどうかの確信を持たないまま、妃になってほしいと申し入れをしていたことを。
君に対する独占欲や情欲が純粋な愛ゆえなのか、それとも一時的な劣情なのか自分の心がわからなかった。
口先だけの愛の言葉を言いたくなくて、君に嘘をつきたくなくて、花時計広場の会話でも―――君が死んでしまうかもしれないと思った瞬間でさえも、「好きだ」と伝えることがどうしてもできなかった。
ライラはまだ知らなかったが、学生の頃より始まったアランの女性遍歴は割り切った遊び人のそれだった。
一介の貴族ではなく王族で、しかも王位継承権第二位という高い身分。
ひとたび交際をすれば相手や相手の親族に妃の座を期待させてしまう。万が一別れるともなれば、相手の女性には同情の視線や揶揄する言葉が浴びせられるかもしれない。
そう思うと気軽に誰かと付き合う気持ちには到底なれず、それでもヴァルギュンターの同級達のように遊んでみたいという欲求があった。
そこで考えた末、一切愛がなく妃にする未来もないという通告を律儀に相手―――奔放な女性に対して行なった上で、しかも付き合うという段階を一切経ず、行為だけをするようになった。
後腐れなく全員一夜限り。
互いに欲を発散するためだけに行う、完全なる遊びの情事。
いつしかナインハルトに指摘された通り、相手には一切の情を持たずある意味一途にストイックに接してきた。その結果、女性の愛し方も男女の仲の機微さえもよく知らないで来てしまったが特に気にはしてはいなかった。
自分は兄のように恋愛結婚をする必要はない。
貴族であれば数回しか顔を合わせないままの結婚もよくあること。条件が合い、互いに尊重できるならば深い感情はない方が気が楽だ。
自分は戦士で、いつどこで死ぬかもわからないのだから。
そう思っていた。
しかし今回の騒動によって、アランの信条は大きく揺らぐことになる。
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