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手のひらの逆さ十字(1) ナインハルト様の贈り物
「昨日はリッガー侯爵領に出向いてレイチェル博士にお会いしましたよ」
「レイチェル様に?!お元気でしたでしょうか」
「お知り合いでしたか。元気に野草を煮詰めておいででした」
この青年は何者だろう。
ギルバードはライラの袖の中からほんの少し顔を出し、舌をぴろぴろとして頭を傾げ続けていた。
どんな生き物も生きている限りなにかしらのにおいがするものなのに、ライラと話している青年からは全然なんのにおいもしない。ライラの匂いを除けば二人が食べているキャンディの甘い香りだけがするという怪。
「目的は特定の動物にのみ作用する毒について知見を得ることだったのですが、ご厚意で試作段階の『スペシャル獣除け薬』なるものを嗅がせてもらいました」
「.....どのような香りでした?」
「香水としてつければ人すら寄りつかなくなる香り、とでも言っておきましょう」
「森歩きには有用そうだわ。あとは絶対に断りたい縁談の席とか」
「はは、悪くない使い道だ」
二人は楽しそうに話しているがギルバードは背筋がゾワゾワとしてきて細い体をきゅっと小さく縮こまらせた。
青年は植物学を学んでいるらしく話す内容はどれをとってもライラの興味をひくものばかり。
でもそれはそれ、得体の知れない人間とは下手に関わらない方が良いと思った。
「ライラは気に入りの香りはありますか?」
「ありません」
「香水もつけない?」
「ええ、苦手なので。ですが獣除けの薬には興味があります」
「......歩く牛舎になってしまうな」
「......どんなにおいかわかりました」
楽し気な会話の腰を折るのは気が引けたが、ギルバードは「もう帰ろう」とライラの腕をツンツンツンとつっついた。
すると一拍置いて、
「エディ様。私そろそろ行かなくては」
「ああ、すっかり話し込んでしまった」
意図は無事に伝わったらしい。交わされる別れの挨拶にほっとしてギルバードは縮こめていた体を伸ばした。
びゅうと吹く木枯らしと鴉の鳴き声が響き渡る庭園を抜けてライラとギルバードは東の離宮へと戻る。
***********
「.........アンナ、今帰ったわ」
「ああっ!!お帰りなさいませ!」
アンナは主人の帰館に安堵して、しかしその胸中は悟らせまいとにっこり笑って出迎えた。主人を部屋に引き入れ周囲をぐるりと一周して、
「さては庭園におりましたね?」
「どうしてわかるの?」
「髪に花びらがくっついてます、ほらっ」
努めて明るく笑い、後ろ髪からひとひらの花弁をつまみとった。
主人の今朝の外出が春の乙女就任の告知であるということは察していた。その上で予定時刻を過ぎても帰らないため、アンナは日課の茶の支度すら手につかず心配して待っていた。
土壇場で春の乙女を代わらせるなんて。
性悪公爵令嬢に神罰が下りますように。
心の中では呪いの言葉を吐きつつ、鏡台から櫛を取って風で乱された主人の銀の髪を優しく直した。
その時、
『あれっ?』
素っ頓狂な声が上がり、ギルバードは舌をぴろぴろとしてボトリと袖から床に降り変化をして言った。
『アンナ、今ナイン来てる?』
「.....ふふっ、そうなんです」
アンナはライラのドレスの裾をチェックしながらいたずらな笑みを浮かべた。
「つい今しがたお越しになりまして、お待ちいただけるとのことでしたので客間にお通ししています」
ナインハルト様がいらしてるの?
手早く身なりを整えられた後ライラはそわそわする心持ちでギルバードと並んで客間に向かった。自分が寝ている間に彼が一度見張りに訪れていたという話は聞き知っていて、寝顔を見られたと思うと気まずくて恥ずかしかった。
落ち着いて対面できる気はしなかったが、
「......おはようございます、ナインハルト様」
客間にそっと滑り込んで恐る恐る声を掛ける。
するとナインハルトはソファーを離れて早足でやってきたかと思うとごく至近距離に立ち身を屈めて視線を合わせてくるのでライラは数センチ飛び跳ねて後ずさった。
「おはようございます、レディ」
動揺するライラは意に介さず様々な想いを瞳に湛えて、ナインハルトはほうと胸を撫で下ろした。
「痛むところはありませんか」
「え、ええ、どこもありません」
「よかった。ずっと心配していました」
そう言ってライラの手をとり見つめてくる彼は以前と少しも変わらない様子だった。
寝顔にドン引きされてたりとかは、多分なさそう...?
ライラはナインハルトの表情から希望的観測を試みて、そもそも人の寝顔を見て態度を変えるほど狭量な方ではないと胸の内で言い聞かせる。現に自身に向けられる眼差しは初めて会った日からなんら変わりないのだから。
穏やかで優しく、空とは違う碧の瞳。
「......海より碧いのでは」
ふと口をついて出たのは夢見がちな発言で、ナインハルトが驚いた顔をするのに気づいて慌てて取り繕う。
「すみません、まだ寝ぼけているのかも」
『平常運転でしょ』
隣でギルバードが茶々を入れ、ライラはギルバードの脇腹に手刀を入れた。
『ギャッ!』
「あら、つい手が」
姉弟よろしく戯れるふたりにナインハルトはくすりと笑い、ライラの腕を引いてソファーへと座らせた。
「元気でおてんばで安心しました」
向かい合ってソファーに座り、ギルバードもライラの横にあぐらをかいて座る。ギルバードはナインハルトと彼の隣に置かれた箱とを交互に見て、
『今日のナイン、いつもと雰囲気違う気がする』
「.....そうか?」
『うん。普通の貴族っぽく見える』
普段外ハネしている金の髪は大人しくまとまっており、いかにも貴族の令息といった雰囲気でワイルドさは鳴りを潜めていた。
ああ、とナインハルトは髪に手をやり笑って言った。
「まだ乱れてないというだけだ。今朝は稽古場に行かなかったから」
『寝坊?』
「まさか。王都にある店に出向いていた。この髪も今だけで夕方になれば癖が出る」
ライラはナインハルト様は癖っ毛なのかと思う傍ら、王都と聞いて自分にも行きたい場所があったことを思い出した。
「私も弓を取りに行かなければ。もうできているのかしら」
「できていますよ。試し射ち用に多めに矢を準備して待っているそうです。レディのご都合の良い時に同行します」
「ありがとうございます」
一日も早く受け取りたいという気持ちがぐわっと湧き上がってきたのも束の間、たちまちしぼんでいく。
都合の良い時は果たしてどれくらいあるのかしら。
「.....ナインハルト様も既にお聞き及びかと思いますが、春の乙女の準備で少々忙しくなりそうです。スケジュールがまとまりましたらご連絡します」
ライラの暗く翳る顔を前にナインハルトは無言で頷くことしかできなかった。
安易な声掛けも激励も、まして同情などきっと望まない。
言葉の代わりに隣に置いていた箱を手に取って差し出した。
「ささやかながら贈り物です」
「.....へっ」
ライラは落ち着きなく左右をきょろきょろと見渡し、その仕草がおやつを前にしたシャルロットにそっくりだったためにナインハルトは思わず笑う。
「他の誰でもなくレディへの贈り物です」
「えっ、なぜ?」
「回復のお祝いです」
「あ.....ありがとうございます」
受け取って膝の上に乗せて眺めていると軽快なノック音が客間に響き、アンナがティーセットを持って入ってきた。アンナはライラの膝の上にある箱を見つけて微笑み、茶を出して一礼したのちにぱたぱたと部屋を出て行った。
「今開けても構いませんか?」
「どうぞ」
『なんだろう』
ギルバードが興味津々で箱をくんくんと嗅ぎ、ライラは箱を持ち上げてギルバードの鼻先にずいと近づける。
「蛇の嗅覚と頭脳でわかる?」
『多分お菓子っぽいなにか。でも箱についたナインのにおいで詳しくはわからない』
二つのにおいを嗅ぎ分けつつやはり先程庭園にいた青年は不思議だったと改めて思う。
物ですらこうして残り香を纏うのだから。
「......私にはどっちの匂いも全然わからないわ」
「っ!レディ!普通に開けてください」
ライラまで箱をくんくんしだしたのでナインハルトは気恥ずかしさに慌てて止め、ライラははっとして小さな照れ笑いを浮かべてからリボンと包装紙を解き始めた。花柄の綺麗な包み紙を破らないよう慎重に外して箱の蓋をそっと持ち上げ、納められた品に息を飲み感嘆する。
そこには繊細な花模様の細工が施された円柱形の硝子瓶が入っており、瓶の中は赤紫色のとろみのある液体でなみなみと満たされていた。瓶を取り出して揺らすと液体に混ざる細かな粒子が照明を反射してきらきらと煌めき、硝子細工と相まって宝石の如き美しい輝きを放つ。
箱の底を見ると商品説明のカードが入っていた。
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【菫とジンジャーのシロップ】
白湯や紅茶に溶いてお楽しみ下さい。
そのままでも美味しくお召し上がり頂けます。
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シロップ瓶の他には硝子製の小皿と小さなスプーンが同梱されており、それにも花模様が彫られていた。
ライラは瓶の細工とシロップの色合いとを光に透かしてじっくり眺め、ナインハルトはギルバードと目を合わせて微笑んでから、
「喉にも良く体を温める効果もあります。乾燥が進む時期にもなりますしリフレッシュ用品としてお使いください。味も香りも気に入っていただけるかと思います」
「こんなに素敵なものをありがとうございます。開けるのがもったいないくらい綺麗だわ」
ライラは瓶を元通り納めて箱ごとぎゅっと抱きしめた。
数日の間は飾って目で楽しもう。
その後はレッスンをこなした自分へのご褒美として、毎日ちょっとずつ食べよう。
「喜んでいただけたならなによりです」
ナインハルトはまたひとつ微笑んでソファーから立ち上がった。
「では私はそろそろ。あ、そうだ。レディに一件許可いただきたいことがありまして」
「許可?なんでしょう」
座ったまま訝しんで見上げるとナインハルトはギルバードにちらと視線を流す。
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