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手のひらの逆さ十字(2) オルフェウスの訪問
「彼を戦士の稽古に参加させてもよろしいでしょうか。スキルを有効活用する術を学んでもらえればと思います」
ギルバードは大急ぎであぐらをやめて姿勢を正し、ライラは思ってもみなかった申し出を嬉しく感じた。
アルゴンの戦士に混じっての稽古、ギルバードにとって有意義な経験となるに違いなかった。
「はい!私としては是非ともお願いしたく思いますが.....ギル、あなたにやるきはあるのかしら」
尋ねるとギルバードは意気込んで、
『もちろん!.........でも』
なぜかしゅんとして顔を伏せてしまいライラは不思議に思って覗き込む。
「でも?」
『......ライラのそばにいないといざという時守れないから』
「またとない機会よ。やるきがあるならやるべきだわ」
『チャリティでは大怪我させた。俺がそばにいなかったせいだ』
語る声は悔恨に満ちており、ライラはこの時初めてギルバードが主人を守れなかったことを強く悔やみ今もなお自責の念に駆られていると知る事になる。
「.....あなたは脱皮期間で動けなかったじゃない」
『視力は戻ってたんだから一緒にチャリティに行けばよかったんだ。そしたら守れたはずなのに。使い魔失格だ』
そうは言っても長期間の絶食もあり、萎びた紐さながらにぐったりしていた姿を思うと戦えたかどうかは甚だ疑問だとライラは思う。だがそれを言うのが憚られるくらいにギルバードはしょんぼりとしょげかえっていた。
「私が怪我をしたのは私自身が戦いを望んだからであって、あなたのせいなんかじゃないわ。あなたは一緒に戦ってくれた。ギルの神力があったから私はキメラを退治できたの」
物理的に離れていても使い魔は主人と共に在る。
ギルバードが脱皮期間でふせっている間、ライラはふたりで一緒に出掛けられないことをたびたび憂い嘆いていた。しかしチャリティでの戦闘を経て、自分がどこに行こうとギルバードは常に一緒にいるのだと認識を改めていた。
たとえそばにいなくてもあなたは私の中に息づいている。
それは主人の魂に使い魔の魂が結びついているからで、だから私が死ねばあなたも死んでしまう。
そうでしょう?
俯くギルバードの頭を優しく撫でる。
「ねえ、ギル。あなたは強い使い魔だけれど戦いの経験は全然足りていないと思うの。いつもそばにいてくれるのは嬉しいし私も安心するけれど、そうしているだけではいつまで経っても経験は積めないわ」
諭す口調で語りかけるとギルバードは瞳を上げてライラを見た。
『俺が強くなったら、ライラは嬉しい?』
「ええ。あなたは私の使い魔でブラッドリー侯爵家の一員なのだから。目一杯練習して、私だけではなくてたくさんの人を守れるような強い使い魔になって頂戴」
ライラは撫でる手を降ろして微かに笑いかけ、膝に乗せていた箱をテーブルに置いて立ち上がりナインハルトと向かい合った。
「ナインハルト様、お手数をお掛けしますがギルバードをよろしくお願いします」
そうしてナインハルトが離宮を去り、ライラがシロップ瓶を部屋に飾ってアンナとうっとり眺めていた時のこと。
また別の訪問者がやってきてカツカツとドアノッカーを打ち鳴らした。
「ご意見をいただいてからスケジュールを組もうかと思いまして。すみませんが一時間から二時間程度お時間をいただいても...?」
「はい、大丈夫です」
テーブルを挟んで対面に座し、黄色いローブに身を包んだ訪問者―――大神官オルフェウスはぺこりと深く頭を下げた。ウェーブがかった長い髪は僅かな黒を残すのみでほぼ白髪。声や口調からそこまで齢は行っていないと思われたものの、眼鏡の下の黒い瞳は悟ったような温厚さと賢明さとを備えており限りなく年齢不詳の男だった。
オルフェウスは持参した書類をテーブルに広げてライラとギルバードに示す。この時ギルバードは変化を解いてテーブル上に鎮座しライラと共に紙片を覗き込んでいた。
「まずはこちらをご覧ください。明月祭までに修了が必要なレッスンと座学の一覧になりまして........ああ、ありがとう」
アンナはハーブティを二人ぶん出し、不安気な面持ちで退室する。
「レッスン一覧の各項目に記載されている数字は習得にかかる見込み回数です。座学一覧の方は見込み時間になります。各項目の内容をご確認いただいた上で数字に修正をいただけますでしょうか」
オルフェウスの説明にライラはぐっと眉根を寄せる。
「つまり......回数や時間を減らせそうなものは減らし、自信がなければ増やすという認識で合っていますか」
「仰る通りです。レッスンは1回120分で途中に休憩を10分程度挟みます。場所は王城の一室です」
「わかりました」
レッスンのたびに王族の住まいに通うと思うと気が遠くなるが致し方なし。ライラは本棚についている小さな引き出しからペンを取り出し一覧に書き込みをし始め、ギルバードはその作業を暫く眺めてから丸い頭を上げてオルフェウスを見た。
『ちょっと聞きたいんだけどさ』
どこか拗ねる口調であったがオルフェウスはティーカップを置いて静かに答えた。
「はい」
『大神官ってボク達のことキライでしょ』
唐突かつストレートな質問にオルフェウスは身をぴくりとさせライラも一瞬ペンを止めたが、ギルバードが神殿から目の敵にされてきた過去を思いひとまず好きに話しをさせることにした。
ギルバードは尻尾に顎を置いてぶつくさと呟く。
『召喚されてから今日まで優しくされた記憶はないし、そのくせやたらと絡んでくるし。しつこくイジメられてる気分だ』
暫しの沈黙。
部屋にはライラがペンを走らせるカリカリとした音だけが響く。ジトっと見上げてくる黒い目にオルフェウスは瞳を悩ましく揺らし微かなため息をついて、
「他の三人は蛇を不吉と見ています。ライラ様についても危険視している節は否めません」
危険視する理由としては両親―――特に実の父親が関係しているという話は伏せておいた。
「ですが私は違います。おふたりを嫌ったり危険視したりなど神に誓っていたしません」
『ふうん?』
ほんとかなあとギルバードは怪しんで頭を傾げる。
『じゃあボクを初めて見た時どう思ったの?』
「強い力と叡智を秘める使い魔だと思いました」
『危険生物やキメラじゃなくて?』
「それはない。あり得ません」
『そうは言うけど蛇は神の庭にいないしムカデのキメラと同日に召喚されたから危険生物かキメラに違いないって神殿は見解を出してたじゃない』
「それはっ.........それはひとえにアルゴン人が蛇を不吉や悪の象徴と捉えているからであって..........私はそうじゃない」
オルフェウスはやるせない思いを含んだ吐息をこぼし、緩慢な動作で眼鏡を外した。レンズを介さずギルバードに注がれる眼差しには敬虔な光があった。
「今でこそアルゴンの民となりアルゴン神殿に勤めておりますが、私はイーリアス人です。イーリアスの民にとって蛇は神聖生物、長寿と叡智の象徴です。蛇が召喚獣として神より遣わされたとなればそれは無上の栄誉でしかなく不吉と言われる所以はない。私は私の信仰においてあなたを危険生物やキメラと同一視することはありません」
思いがけない告白にギルバードは黙り込み、ライラはこの話を聞いてふとチャリティで立ち寄った露店を思い出した。
花時計広場で失くしてしまったが、あの日はイーリアスの輸入雑貨を扱う店で蛇の機械人形を購入しトートバッグにぶら下げていた。たくさんの露店と人がひしめく通りにいながらもなぜその店に目を留めることができたのか。
それはあの蛇の人形が他の人形を差し置いて最も目立つ場所に飾られていたからだった。
まるで祀り上げるかのように。
『イーリアス人としての信仰心があるのに、どうしてアルゴンに来たの?』
言葉を取り戻したギルバードが質問を再開する。それはごくプライベートな問いであったがオルフェウスは素直に答えた。
「イーリアスは機械の国と言われるだけあって発展していますが、そのぶん空気がよくありません。私は生まれつき体が弱く年々イーリアスの空気に体が耐えられなくなってしまって。16歳の時に故郷を捨ててアルゴンに完全移住しました」
『.....一人で?』
「ええ、もとより孤児で家族はいません。成人の儀もこちらで済ませましたし、移住して15年以上経ちましたからもうすっかりアルゴンの民になった気でいました。あなたの召喚を知るまでの話ですが」
オルフェウスは自嘲気味に笑って眼鏡を掛け直し、ギルバードは透明なレンズでは隠せない憂いと郷愁を帯びる目を黙って見上げる。
「他の神官達があなたを断罪すべきだと言った時、なぜその必要があるのか理解が及びませんでした。話し合いを重ねる中で文化の違いだと気づき、住処を変えても私はイーリアスの民なのだと思い知らされました。自分のルーツや幼少期に刷り込まれた思想というものは忘れたようでいてなかなか根強く残るものらしいです」
「オルフェウス様、数字の修正が終わりました」
「あっ、ありがとうございます。そうしましたら次に、外交一覧の方を―――」
オルフェウスとライラの事務的なやりとりを聞きつつギルバードはいつの間にか緩んでいたとぐろを巻き直した。ここまでの彼の言葉に嘘はないと思えた。あえて嘘をつく必要のない話というのもあるが、他の三人の大神官達とは違って彼の態度や口調には相手を尊重する意志が見て取れた。
神官というのはいけすかないが、人柄は多少信用しても良さそうだ。
ライラが別の一覧にまた同じ作業を始める間にまた話を続けることにする。
『春の乙女の変更についてどう思ってる?』
「どう、と言いますと」
『変更するべきだったかどうか』
「いいえ。変更するべきではありませんでした」
オルフェウスは目を閉じて深く嘆息した。
「辞退を認めてはならないと意見をしましたが、三対一で通らず。神託ではなく人が多数決をもって変更するなど神への冒涜に他ならない」
『"神託"って具体的になにがあるの?』
「春の乙女が神殿で日課の祈りを行う際に異変が起こると言われています」
『.....そっか。それで祈りが役目の内に含まれてるんだ』
オルフェウスは頷き、ギルバードは一覧を凝視しているライラを見た。眉間にしわを寄せてかなり集中しており、周りの声は今や耳に入っていないようだった。
この隙にちょっと突っこんだ話をしてみよう。
思い立ち、ギルバードはテーブルに置かれた書類を眺めるふりをしてオルフェウスのそばに寄った。怪訝な面持ちをするオルフェウスに向かって鎌首を伸ばしてこそっと、
『禁書はきちんと保管されてる?』
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