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カラスの献身(1)
人々が寝静まり静寂が満ちる未明の時刻、夜闇に紛れて神殿の大聖堂を訪れる一人の男の姿があった。
右手には背丈程に長い杖を携え、左手は壁に触れて指先の感覚と己の記憶を頼りに目当ての"モチーフ"を探して伝い歩く。
程なく狼が彫られたレリーフに辿り着き、男は狼の額に手をあてて静かに言の葉を紡ぎ始める。奉唱に呼応してレリーフと杖は仄かな光を放ち、数度の明滅を経て壁の内側で錠が開く鈍い音が響き渡った。壁に触れた手に力を籠めて奥へと押せば人一人通れる程度の空間がぽっかりと口を開け、男は深淵を前に暫し立つ。
夜闇より更に暗い、身の内まで侵す永遠の闇。
ローブの裾を翻して男は常闇の部屋と消える。
壁は閉ざされ、隔絶の音を立てる。
奇しくもその同時刻。
西の森からのみ辿り着ける秘密の場所―――神殿の地下に広がる古代遺跡に三人はいた。
「あー、いつ読んでも腹が立つわ」
マリアンナは石でできた長方形の祭壇に腰掛けて一冊の本を開いていた。
「書くならもっと丁寧に書きなさいよ」
物言わぬ本に説教を垂れ、パタンと閉じて無造作に横に放り投げる。ランプの灯りに照らされて印字のない黒い表紙が浮かび上がり、エルカディアは本を手に取るとぱらぱらとページを繰った。
「植物学の古文書に比べれば易しい」
「易しい?どこが」
「文体の話だ」
「読めても解読しきれないなら読めないのと同じよ」
マリアンナは軽く言い捨てて祭壇を降り、ドレスをはたいて退屈そうに体を揺らした。
「はあ。カーウェインなにやってるのかしら。早く帰らないと夜が明けてしまうじゃない」
視線の先には真四角の大きな檻があった。それは本来移動式サーカスで猛獣を収容する用途に使用される品であったが、今その中には一人の髭面の男が閉じ込められており、激昂する男をオルフェウスの弟子カーウェインがひたすら宥めすかしていた。
『ですからどうか冷静に』
「冷静になんてなれるか!貴族になれるというから来てやったのに話が違う!!」
『話は本当なんですって。この檻は念のためです』
「知るか!人身売買か獣のエサにでもする気だろう!!」
『だから違いますってば。さっきも言ったでしょう。過去の被験者に私を殺して"幸運の玉"を全部持ち去ろうとした極悪非道の輩がいたので、今こうして被験者全員閉じ込める運用になっちゃったんですと。文句ならその野蛮人に言ってくださいよ.....』
「ハン!ちなみにそいつはどうなった」
『そんなの叩き出してやったに決まってるでしょう。貴族になるには最低限品性がなくちゃいけない。人を殺そうとしたり宝を強奪して独り占めしたりするような卑劣な人間にはそもそも資格がありません』
もっともらしい言葉を並べ立てるが男は依然警戒心を露わにして、カーウェインの方に近づくそぶりを見せなかった。かれこれ一時間経過、カーウェインはため息をつき、かくなる上はと檻ごしに顔を近づけてひそひそ声で囁いた。
『じゃあもう、特別にお教えしますけど!あちらに立っている赤毛のご令嬢。どなたかわかりますか?』
男は不審気な顔でカーウェインを見、奥に立つ人影を見る。
「薄暗くてわからない」
『春の乙女だったご令嬢、と言えばわかります?』
「はあっ?まさかそんなわけな......え.........」
男は黙りこくったのち檻の手前にやってきて食い入る目で見つめて言った。
「マリアンナ様だ。なぜあの方がここに」
ここぞとばかりにカーウェインは男のそばに寄り声を潜めて、
『実はあなたが貴族になった暁には是非お近づきになりたいそうなんです。マリアンナ様は過日のキメラ襲撃に大変ショックを受けておいでで、結婚するなら同世代のなよなよとした令息より自分を守ってくれそうな年上で屈強でワイルドな男性がいいと仰せでして、あなたはある一点を除いて条件ぴったり。ああ、平民でさえなかったら』
男は生唾を飲み、鉄格子を掴んでいた手を降ろした。
「俺はあの方にお会いしたことがある。地方視察とかで......。手を振ったら笑顔で振り返してくれたんだが、それを覚えて.....」
『なるほど、ではその時でしょう、あなたに目を留められたのは。わざわざ今日この時間に来てくださっているところからも想いの強さは窺えますよね?そうそう、あなたの髪や目の色もマリアンナ様の好みだそうで―――』
全部事実無根であったがカーウェインはノリよく男を煽り、男は思いも寄らない打ち明け話に徐々に高揚を覚えていく。
思い返せば彼女に手を振った時、かなり長い時間自分の方を見ていた気がする。王子と婚約すると噂されていたのにそれを果たさなかったのも自分に想いを寄せてくれていたからではないか。
ほんの少し前まで怒り荒ぶっていた男の心は眼前に佇むマリアンナの愛らしい容姿と自身の勝手な妄想とでみるみる内に懐柔され、その心の機微を感じとりカーウェインは更に畳み掛ける。
『でもいくらあなたがマリアンナ様のタイプでも、貴族でない以上は髪の一筋にさえ触れられませんよ。せめて男爵になりましょう。男爵になってマリアンナ様の家門に婿入りできればあなたは次期シャイレーン公爵です』
「俺が.....」
『マリアンナ様の想いが通じて神が奇跡を与えてくれる可能性は高いと思います。あの方は神に愛されしご令嬢ですから。...........で、どうします?やります?それともやめて帰ります?今ならまだ帰れますけど』
カーウェインは黒光りする玉と水の入ったコップを男に差し出し、男は最早ためらわずに受け取った。不安はあれど、マリアンナに度胸のある姿を示したかった。
「飲んだ後はどうすればいい」
『そちらの椅子に座って"貴族になりたい"と強く神にお祈りください。上手くいけば神があなたに貴族の名をお与えくださいます。この砂時計の砂が落ちきってもなにも起きない場合は運がなかったということで、来た道を通ってお帰りいただきます』
聞くやいなや男は黒い玉を口に放り込み水で一息に飲みくだした。カーウェインは取り出していた砂時計をひっくり返して床に置き、男に椅子に座るよう促してから檻に背を向けてマリアンナとエルカディアの元へと向かった。
「.....遅いわ。どれだけ待たせるのよ」
『すみませんマリアンナ様。説得に少々時間がかかり』
「カーウェイン、ブラニスはあといくつある」
言い訳を遮ってエルカディアが尋ね、カーウェインは反射でぴんと背すじを伸ばした。
『はい、ご主人様。えっ、えーっと.....』
残数は把握できていたがすぐには答えず悩むふりを挟んだのちに、
『未使用は八個です。その内三個にテスト用の魂を籠めています』
答えがすぐ返らなかったことにエルカディアは眉をひそめる。
「数は常に把握しておけと言ったよな。残数が三になったら追加で作成するように」
『はっ、はい。あの......』
「なんだ。物ははっきり言え」
『は、はい......あの、コルトナ男爵の一件がありますからブラニス作成はこちらで行いますが、素材集めは人を雇おうと思います。王都は警備と取り締まりが厳格化していますので、なるべく地方を狙わせようかと―――っ』
首をわし掴みにされてカーウェインは息を詰まらせ、エルカディアは赤銅色の瞳で冷酷に睨み据えて怒声を発した。
「いいか。ブラニスの作成方法は二度と漏らすな。あの一件、毒を飲ませていなければ取り返しのつかない事態になっていた」
『もっ...もうし、わけ.....』
「愚鈍の鴉が」
吐き捨てる言葉と共に掴んだ首を乱暴に突き放され、カーウェインは受け身も取れずに石の床に倒れ込んだ。首はズキズキと痛み、打ち付けた手足も痺れてはいたものの力を振り絞って立ち上がった。
『......申し訳ありません』
悲しい扱いではあるが主人の怒りはもっともだとカーウェインは思う。
今年の春までブラニス製作や材料となる人間集めはコルトナ男爵に一任していた。最初こそ指示に従っていた彼らは作業に慣れてくるやいなやこの地下空間でやるべき作業を屋敷で行い始めたばかりか作成したブラニスを時折持ち歩くという暴挙に出た。
そしてそれを知りながらカーウェインは止めなかった。
止めるべきとわかっていたのに傍観していた。
結果、建国記念の祭典の日にコルトナ男爵とその弟はブラニスを所持した状態で制圧され、逮捕を知ったエルカディアの指示でカーウェインは牢に入れられる前の彼らに接触し、拷問の痛みを感じなくさせる薬だと偽って毒薬を飲ませギリギリ自供を回避していた。
寄る辺なく立つカーウェインにエルカディアは冷たい一瞥をくれる。
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