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カラスの献身(3)
点々と灯りがともる通路を進み、突き当たりに到達した時に目の前を塞ぐ石壁に手をついて神力を使った。石は神力に反応して横に開き、カーウェインはむせかえるような森の香を大きく吸い込んでふうと息を吐いた。何度か深呼吸した後、通路の入口をぴっちり閉めて暗い森を走り出した。
小枝を踏む軽い音と小気味良く響く足音に続いて、
―――バサバサバサッ!
星降る夜空に一羽の黒鳥が舞い上がった。涼やかな秋の夜風が吹き抜ける中、黒く輝く翼は漆黒の闇夜に溶けて見えなくなった。
咳の発作は出ていないだろうか。
風を切って悠々と羽ばたきつつ屋敷にいる師に思いを馳せる。万が一咳の発作が出たとしても枕元に咳止め薬を準備しているため大事にはならないはずだった。
そうは言っても、師のマイペースすぎる性格を思うと安心しきれないのが切ないところ。
暫く飛んで眼下に森の木々ではなく田園風景が見えてきた頃合いで音もなく急降下する。水田の奥にぽつんと立つ平屋造りの屋敷の一室―――カーウェインに与えられている部屋の開け放たれた小窓へと飛び込んで変化を解いた。物音を立てないようにそっと窓を閉め外套を脱いでベッドに放り投げて枕元のランプをつける。
今日も無事生きて帰ってこれた。
ほう、と安堵してベッドに座ると水差しが目に留まり、急に喉の乾きを覚えてコップに水を注いで飲もうとして。
動きを止め、クンと辺りのにおいを嗅ぐ。
―――血?
気づいた瞬間コップを置いて部屋を勢いよく飛び出していた。脇目も振らず師の寝室へと走りノックもせず扉を押し開けて、
「師匠!!......」
そこに彼の姿はなく、ベッドのシーツはぴんと張られてきれいに整えられていた。
寝ていない。
心臓が早鐘を打つ。集中して臭いを辿り、廊下をうろついてはたと気がつく。
研究室?
別棟にあるその部屋は事件の押収品や危険なアイテムが保管されている場所であり、一番弟子のカーウェインですら立ち入りを許可されていない一室だった。他の弟子達を起こさないよう渡り廊下を静かに通って研究室の窓を見ると、案の定カーテンの隙間からは薄く灯りが漏れていた。
扉の前に立つと血の臭いは一層強くなり、思い切ってドアノブを捻って中を覗くと立ち並ぶ棚が見え、死角に隠れて姿こそ視認できなかったが壁には人影が映っていた。
「........師匠?」
「戻りなさい」
いつもの声。
立ち昇る血の臭い。
「師匠、血が」
「私は大丈夫だ。戻って寝ていなさい」
大丈夫だとは思えなかった。
言いつけは聞かずに足を踏み入れ、棚の陰を覗き込んで言葉を失くす。
「戻りなさいと言っているのに」
呆れた口調でオルフェウスは呟くがカーウェインの耳には入らなかった。
オルフェウスは床に直に座り込み、同じく床に座る雄鹿―――使い魔フェリベルシアの脚を斜めに切り裂く傷に薬を塗っている最中だった。そしてオルフェウスが纏う黄色いローブの左側は赤黒く染まり、左腕に至ってはローブの上から赤と緑の木のツルがぐるぐると巻きつき強く締め上げて血管さながらにドクドクと脈動していた。覗く左手は脱力して垂れ下がり皮膚の色が見えないくらい血塗れだった。
そんな状態にあってもなおオルフェウスはフェリベルシアの脚に黙々と手当てを施し続け、カーウェインは部屋を走り出て救急用品やタオルを片っ端からかき集めた。研究室に戻ると床に膝をつき師の左腕を捕らえローブの袖を捲り上げようとしたが強く締めつけるツルのせいで叶わない。
「神力を解いてください」
「今はできない。周りを汚さないように血を吸わせている」
「止血剤は持ってきました。早く解いてください」
「......では自分でやるからそこに」
「もういいです」
カーウェインは師の腕を離したかと思うと竈に火を起こす際に使う極太マッチを取り出すのでオルフェウスは目を瞠り、一拍置いて笑い始めた。
「わ、わかった解く。だからそれはしまってほしい」
オルフェウスは右手の指をパチンと鳴らした。すると左腕を締めつけていたツルは赤いものも緑のものも弛んで落ち、枯れて塵となり消えてしまった。
カーウェインはマッチを戻して師の左袖を捲り上げて腕を確認し、思わず目を閉じた。
見るも無惨な滅多斬り。
一部は肉がスライスされ、本のページを彷彿とさせる有り様になっている。そのくせローブにはひとつの裂け目もなく腕のみが切り裂かれているという不可思議な傷で、カーウェインは止血剤と消毒液を含ませた布を傷に滑らせながら掠れ声で尋ねた。
「......左腕だけですか」
「ああ。他に傷はない」
「手は動かせますか」
「いや、今は感覚がない」
「.........なにがあったんですか」
「そう言えば逆だな、あの時と」
一瞬カーウェインは手を止めた。それがいつを指すのかはすぐにわかったが、
「はぐらかすのはやめてください。普通の刃ではこんな傷はつきません。誰の仕業ですか」
脳裡には主人とマリアンナの声とが木霊する。自分がいない隙を見計らって刺客を差し向けたのではないかと疑念が沸き、強い負の感情に全身の血が凍えていく。
「師匠、お願いです。教えてください」
懇願する弟子の瞳に強い怒りの光がちらつくのを見て、オルフェウスは瞳を揺らし悩む息をついた。右腕を上げ、少し離れた床に転がる黒い塊を指さして言った。
「今しがた悪しき力が籠められた宝具を破壊した。フェリベルシアに返った反動を代わりに受けて負傷しただけだ。誰かにやられたというわけではないから安心してほしい」
「.......宝具って」
よくよく見ると宝具周辺の床に赤い紙の断片が散らばっていることに気がつきカーウェインは驚愕の眼差しを向けるが、オルフェウスは平然として座っていた。
赤い札は曰くつきのアイテムの印。
大神官四人の力をもってしても破壊できるかわからないと言われる代物。
「一人で壊すなんて、どうしてそんな」
「私以外やる者がいない。反動が返るとわかっている品をあえて破壊したいと思う人間は少ないんだ。たとえ大神官であったとしてもああいうものへの対処は慎重にならざるを得ない」
つまり他の三人の大神官が及び腰であったということか。だからといって一人でやる必要が果たしてあったのかとカーウェインは師の傷に止血クリームを塗り籠めながら煩悶する。
「でも、たとえ曰くつきでもここにあるなら直ちに害がある物品ではなかったのでは?」
「水を入れない限りは発動しない宝具だった。......ああ、そう考えるとサイモン卿の神力は不適で」
「だったら!」
カーウェインはオルフェウスのローブの袖を掴み、肩口に額を押し当てて声を絞り出した。師の匂いを塗りつぶす血の臭いに否が応なしに恐ろしい連想が働き恐怖と悲しみで苦しくなる。
「だったら防水の箱にでもしまって放置しておけばよかったじゃないですか!」
オルフェウスは布越しに伝わるカーウェインの身の震えに動揺して頬をかいた。仮にも大神官の身であるにも関わらず、弟子をこれ程まで不安にさせる辺り相当頼りなく見えているらしい。
とはいえ日頃の体たらくを振り返ればそう思われても仕方ないかと納得して言葉を選んだ。
「己が身のかわいさに危険なものを放置し若い世代に引き継ぐのは私の信条に反する行いだ。神官である以前に一人の大人として私は正しい行いをしていきたいと思っている」
「じゃあ......じゃあそのために師匠が弟子の心配を無下にして命を危険に晒すのは正しい行いと言えるのですか?」
「私は命を危険に晒してなどいない。怪我をするのは稀で普段はなんともないのだから。言ってはなんだが宝具の破壊自体はさほど難しくはないし私とフェリベルシアがいれば三人がいなくとも事足りる」
それは普段とは異なる尊大な返しで、カーウェインは毒気を抜かれて師の顔を見つめ、オルフェウスはフェリベルシアに薬草を食ませつつ微笑んだ。
「君にもいずれわかる日が来る。いつか神力を得て神官になり後進の面倒を見る機が来れば必ず」
カーウェインははっとして俯く。何気ない言葉掛けであったができれば耳を塞いでいたかった。今の心境で直面するには師が語る未来が永遠に訪れないという現実は辛すぎた。
弟子の物思いに沈む瞳をオルフェウスは覗き込み、カーウェインは下を向いたまま言った。
「すみません、考え事を少し」
オルフェウスは自身の腕に包帯を巻きつけるカーウェインを黙って見る。出逢って数年、この弟子が明かせない事情を抱えているということは理解していた。
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