父、冷感あり

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 勤続三十年余で、私の体力はついに現場仕事に悲鳴を上げた。   なんてことはない積み荷を降ろそうとして手を掛けたら、そのままよろめいてコンテナから転げ落ちてしまったのである。   そんなことがあったものだから、現場に私の居場所は無くなった。 「森沢さん、もう無理はしなくて良いんで事務所勤務でお願いしますよ」  私の身を案じた二代目社長にそう言われて以降、私の仕事はもっぱら朝から晩まで不慣れなパソコンと戦うこととなった。   やれクリックだの、エンターだの、ドロップだの、意味不明な横文字を最近になってようやく覚えて来た。  この手の仕事は若手に全て押し付けて来たせいで、定年を前にして大きなツケが回って来たのだと思えば仕方ない。  肩が凝るので近頃湿布を貼って寝るのだが、不思議なことに朝になると必ず剥がれてどこかへ消えてしまっているのだ。   始めはよくあることだろうと思っていた。  しかし、肌にピッタリ貼り付くようなタイプのものを使用しても、サージカルテープで湿布の周りを覆ってみても、朝になると湿布は消えてなくなっているのである。   何処へ消えたのか気になり、妻に布団などに貼り付いていたり、落ちていたりしないか訊ねてみたものの 「あんたが寝てる間に食べちゃったんじゃないの」  と、てんで取り合ってもらえなかった。   湿布が消えて以降、私自身には体調悪化の兆しのようなものは何もないのだが、やたら体温が低い日が近頃続いていた。   寒い日が多いからだろうと思っていたが、朝になって体温を測ると今までは三十六・五度はあった体温が、今朝は三十五・五度で体温計が止まってしまったのだ。   これは何か病気なのかもしれないと思い、病院へ行ってみると顎の長い医師は顎を触りながら首を何度も捻っては顎を触り、再び首を捻っては顎を触りを繰り返した。 「妙なんですねぇ……これほど体温が低ければ血圧や心拍数に影響が出てもおかしくないんですけど、それは至って平常で……うーん。森沢さん、例えば外に出ても寒くないとか、近頃何か思い当たるようなことありませんか?」  そう言われ、「あっ」と思うことがあった。   近頃事務所に居ると何となく暑くてたまらない気がして仕方がなく、会社のロゴ入りジャンパーを脱いだり着たりを繰り返していた。   それを伝えてみたが、顎医者はやはり首を捻って顎を触り、うーん……と唸り始めた。   私はふと思い出して、あの事を伝えてみることにした。 「そういえば……朝になると、湿布が消えてるんです」 「ほう、湿布が消えている?」  顎医者はついに顎から手を離すと、私の苦手なパソコンに何やらカタカタと入力をし始めた。さすがはお医者様だからなのか、文字を打つのが早い。老眼のために何を打っているのか定かではないが、驚愕のスピードだ。 「その、湿布が体内に吸収されている……なんてこと、ないですよね?」  そう訊ねると、顎医者は手をパン! と叩き、私の方を向いた。 「湿布は冷感ですか? それとも、温感ですか?」 「冷感です」 「森沢さん、実はですね……」 「は……はい」  私は身構えた。まさかそんなはずはないだろう、そう思っていたのだが、これは何か答えがありそうな気配がした。   しかし、もったいぶっていた顎医者は、突然笑い声を上げ始めた。 「あははははは! まさかねぇ! 森沢さんね、冗談! 冗談ですよ! まっさかそんなねぇ? あははははは!」 「……………………」  なんだ、この不誠実の塊みたいなゴミ人間は! 偉そうに。何が冗談だ、何が医者だ、冗談であってたまるかこの野郎!   おまけに横に立っているバカ面の看護婦まで一緒になって笑っていると来たものだ。同調圧力に屈して、何と情けない始末なのだろう。  気分を悪くした私は、そのまま黙って診察室を出た。   背後から「お大事に~」という声が聞こえたが、ありがた迷惑だと感じた。  それから半年後。   私の仕事は不慣れなパソコン叩きから、ただ椅子に座っているだけの仕事になった。   二代目社長は事務所に入って来るなり、毎度私に深々と頭を下げるのだ。 「いやぁ、涼しくして頂いてありがとうございます! 森沢さんのおかげで経費削減出来てますよ!」  あれから私の体温は日に日に下がり続け、今朝も体温は測定不能だった。       家に帰れば私の周りに野菜や冷蔵品が並べられ、暑い暑いと汗を流しながら婦人会から帰って来る妻は部屋へ入って来るなり、すぐに私に抱きつくようになった。 「あ~、あなたって冷たくって本当に助かるわぁ」 「冬になったら、どうするんだ?」 「外にでも出ててくれたらいいわよ。テント張ってそこにいたらいいじゃない」 「うむ、そうか」   私は今朝も昨晩貼った湿布がないか探し回ってみたものの、やはり見つからなかった。   週に一度はあの顎医者が頭を深々と下げながら無料で回診しに来るのだが、顔も見たくないので断り続けている。
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