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chapter:1.嫉妬
「箱崎先生、ご結婚されていたんですね」
彼の左手の薬指に光る結婚指輪に気付いて何気なくそう言った。だが永井伊織は腹の底から湧き出てくるもやもやとした感情に驚いて、グラスに半分以上のこったハイボールで押し流した。
箱崎健吾 は三十三歳の心臓外科医だ。
その容姿と完璧な仕事ぶりから数多の女性からアプローチされており、院内抱かれたい男ナンバーワンともいわれている。
そんな箱崎は女の気配もさせず仕事柄週の半分は手術室にこもり、何度も念入りに手を洗うので指輪はおろかアクセサリーはなにも身につけていない。だからこういう場で改めて私服の彼を見て気づかされることがあるのだ……。
「ああこれ?」
伊織の視線に気付いた箱崎は、「一応そういうことで……」
と言って少し垂れた目を細めて遠慮がちに微笑むと右手で銀色の華奢なリングをくるくると回した。
「そうだったんですね。知らなかったです……お代わりください! ハイボール濃い目で」
今日は職場の納涼会。病院近くにあるホテルのビアガーデンで同僚と楽しく酒を酌み交わす。生ビールを中ジョッキで三杯、それからハイボールを四杯注文した。
いい具合にほろ酔い気分だったはずが、箱崎が結婚していたという驚きで急に酔いが醒めてしまった。
他の同僚たちは箱崎の指輪に気付かないのだろうか。おそらく左隣にいる自分だから気づけたのかも知れない。
だったらみんな知らない方がいい。
人気者の箱崎が既婚者だったなんて知れたら、院内中の女性が”箱崎ロス“に陥るに違いない。
それはともかく、どうして自分に知らせてくれなかったのだろうか。箱崎は自分のことを信頼してくれているはずで、それなら何かの折に話してくれてもよかったはずなのに。
伊織は恨めしそうに箱崎を見た。
横から見る彼の顔は見惚れるほど整っている。いわゆるEラインが綺麗で高い鼻先とシュッとした顎の先、血色の良い唇。どれをとっても美しく完璧だ。
マスクを装着している仕事中もまた違った魅力があっていい。
伊織は手術室に勤務する看護師で、主に箱崎の手術の介助に入ることが多い。いわゆる機械出しと呼ばれるもので、直接医師へ手術器具を手渡すのが仕事だ。
看護師になって三年目。後輩もでき、育てる立場になって仕事が楽しくなってきたがそれ以上に心臓外科のホープと呼ばれている箱崎の介助につけることにやりがいを感じていた。
緻密で正確で速い手術。そんな彼の思考を読み先回りして手術器具を出せるように、努力することは全く苦痛ではなかった。
の仕事のモチベーションは箱崎にあると言っても過言ではない。
さらに『僕には永井君を付けてね』と名指ししてきたと師長から聞かされて、自分は先生の特別な存在になった気でいたのだ。
だから今日も隣に座って酒の注文をしたり料理を取り分けたりした。
箱崎の好みならよく知っている。
酒は主にビール。洋風の店ならワイン。唐揚げにはレモンはかけない派。生のトマトは嫌いだけどケチャップなら大丈夫。ラーメンよりうどん。コーヒーは一日5杯。見かけによらず甘党で、ロッカーの中はチョコレートを常備している。
「どんな人ですか?」
唐突に伊織は聞いた。
「どんなって、誰のこと?」
「とぼけないでください、先生の奥さんですよ。そんなにいい女なんですか? 選び放題の先生が決めた女性ってどんなだろうって単純に興味あります」
女医や看護師、薬剤や秘書。院内でも指折りの美女たちからアプローチを受けていたはずだ。
院長の結婚前提で付き合っているという話も聞こえていた。しかしそれはどれも噂の域を出なかったのも事実。
「選び放題って……そんなこと全然ないさ。そういう永井君はどうなの? 先月の温泉旅行、女の子といったんだろ?」
温泉は好意を寄せられている年上の看護師から誘われてついていったものだ。旅費も彼女が出した。
老舗の高級旅館で部屋には露天風呂が付いていたから相当お高いのだと思って半分旅費を払うと言った。しかし「いいから」といって譲らなかった。
料理はおいしく温泉も最高で浴衣姿の彼女は綺麗だとは思ったが欲情することはなかった。
布団の上で迫られパンツを下げられた。口でしごかれても立たなかった。それどころか、情けなく萎んでしまう始末……。
『そんなに私としたくない?』
泣き顔を見せたのは一瞬で次に瞬間からは鬼の形相でスマホをいじりだす。
『そういう訳じゃ……ないんだけど。ごめんなさい』
それから彼女とは気まずい一夜を過ごすことになり、翌日は観光もしないで帰ってきてしまった。
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