1ー5 引越

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1ー5 引越

 ノロノロと帰宅した。  夢のような時間だった。  悪夢の方の。  玄関に入ると、いつもの一人暮らしのワンルームが目の前に広がる。けれど、今着ているシルクのワンピースの柔らかな着心地だけが、まだ夢のような感覚を残している。  夢じゃなかった。  夢ならよかったのに。    婚約者に捨てられ、社長に拾われた。  と思ったら、告白を断る理由に使われた挙げ句、水を浴びせられた。  しかも、社長と結婚をすることになった。  弱っていたからとはいえ、なんてことをしてしまったのだろう。  靴を脱ぎ捨て、部屋に一歩入ると、私はその場にヘナヘナとへたり込む。  あの社長と、結婚してしまった。  鬼って呼ばれてる、社長と結婚してしまった。  それはつまり、冷徹な御曹司の嫁になる……ということだ。  しかも、社長が上にのし上がるためだけの、1ヶ月の契約結婚。  ドラマや漫画でしか見たことがなかった、陰謀渦巻く金持ちの世界を想像し、鳥肌が立った。  社長夫人。  いらなくなった、その先は……?  社長は仕事と住居は保証すると言ってくれた。  けれど、もしその仕事が――  ボロいアパートに一人、望まない仕事に手を染めながら、細々と命を繋ぐためだけの生活をする私を想像した。  ――怖すぎる!  契約終了後の仕事と住居の内容まで、きちんと契約するべきだった!  何してるの、私!?  絶望。  人生のどん底は、さらに私を底に突き落とすらしい。  一ヶ月間、私は社長の家に住める。  それだけは、確実。  だから、それまでに何とか……。  ええい、もう、どうにでもなれ!  私はやってきた不安を押し込めるように、まだ夕日の沈んでいない部屋の中、ベッドにダイブし布団を被った。
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