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レストランから一つ下の階。ここは、スイートルームが並ぶ階だ。
私はなぜか今、社長に手を引かれ、その階の部屋の中へと連行されている。
慣れた手つきでカードキーをかざし、部屋の鍵を開けた社長。
「入れ」
そう言われ、私も彼と共に高級スイートに足を踏み入れる。
「社長、お召し物はこちらに」
そう言ったのは、部屋の中に居た男性。
社長と同じくパリッとしたスーツに身を包む眼鏡の彼は、社長とは違いにこやかな表情を浮かべていた。
社長よりは、少し年が上かもしれない。
「助かった、後藤」
社長は“後藤”と呼んだ彼から紙袋を受け取ると、そのまま私に手渡した。
「着替えろ。その服じゃ、外歩けないだろ」
「え?」
袋の中を覗いた。
私の着ていたワンピースに似た、白の小花柄の服が入っていた。
「これ……」
「詫びだ。奥のバスルーム、使ってくれ」
社長、もしかして、このために部屋まで……?
そんな社長の優しさに、少しだけ胸がじわんとなる。
「早くしろ。お前に、話したいこともある」
「どうぞ、こちらに」
社長には凍てつくような視線を投げられ、後藤という男性には急かさる。
私は押し込まれるようにバスルームへ向かうと、そのまま急いで服を着替えた。
◇◇◇
スイートルームのリビングルーム、ふかふかのソファの上。
柔らかな肌触りのシルクのワンピースに身を包むが、夢心地だ、などとは一瞬たりとも思えなかった。
無表情のまま威圧的オーラを放つ、社長の目の前だったからだ。
“後藤”という人が私の前に淹れたてのコーヒーを運んできてくれて、その湯気がゆらゆらと揺れている。
「状況を説明せずに巻き込んで、悪かった」
社長はまた、淡々と謝罪を口にした。
「彼女は見合い相手だった。何度も言い寄られてしつこかったから、お前を出しに使った」
……やっぱり、断る口実に使われただけだったんだ。
「しかし彼女も、これで言い寄ってくることは減るだろう。助かった」
「いえ……私も、助かりましたから」
そうだ。
こんなことになったけれど、最初は絶望の底にいた私を、社長が救ってくれたんだった。
社長が話を聞いてくれなかったら、今頃私は――。
婚約者のことを思い出し、目頭が熱くなった。
突然の婚約破棄。
私の嘘に付き合ってくれた、社長。
この人、冷徹御曹司とか仕事の鬼とか言われてるけど、本当は――
「ウィン・ウィンの関係だったから、俺はお前に持ちかけただけだ」
私の抱いた期待も虚しく、社長は淡々とそう言った。
「でも……社長は、冷徹だとか鬼だとか、色々言われてるけど、この服だって用意してくれましたよね」
「それは服を濡らしてしまった非礼を詫びただけだ。非は謝る。ビジネスの基本だろ」
社長にとっては、そうかもしれない。
でも、私にとっては――
「それでも、私は嬉しかったんです」
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