1ー3 人生のどん底

2/3
3401人が本棚に入れています
本棚に追加
/73ページ
 レストランから一つ下の階。ここは、スイートルームが並ぶ階だ。  私はなぜか今、社長に手を引かれ、その階の部屋の中へと連行されている。  慣れた手つきでカードキーをかざし、部屋の鍵を開けた社長。 「入れ」  そう言われ、私も彼と共に高級スイートに足を踏み入れる。 「社長、お召し物はこちらに」  そう言ったのは、部屋の中に居た男性。  社長と同じくパリッとしたスーツに身を包む眼鏡の彼は、社長とは違いにこやかな表情を浮かべていた。  社長よりは、少し年が上かもしれない。 「助かった、後藤(ごとう)」  社長は“後藤”と呼んだ彼から紙袋を受け取ると、そのまま私に手渡した。 「着替えろ。その服じゃ、外歩けないだろ」 「え?」  袋の中を覗いた。  私の着ていたワンピースに似た、白の小花柄の服が入っていた。 「これ……」 「詫びだ。奥のバスルーム、使ってくれ」  社長、もしかして、このために部屋まで……?  そんな社長の優しさに、少しだけ胸がじわんとなる。 「早くしろ。お前に、話したいこともある」 「どうぞ、こちらに」  社長には凍てつくような視線を投げられ、後藤という男性には急かさる。  私は押し込まれるようにバスルームへ向かうと、そのまま急いで服を着替えた。  ◇◇◇  スイートルームのリビングルーム、ふかふかのソファの上。  柔らかな肌触りのシルクのワンピースに身を包むが、夢心地だ、などとは一瞬たりとも思えなかった。  無表情のまま威圧的オーラを放つ、社長の目の前だったからだ。  “後藤”という人が私の前に淹れたてのコーヒーを運んできてくれて、その湯気がゆらゆらと揺れている。 「状況を説明せずに巻き込んで、悪かった」  社長はまた、淡々と謝罪を口にした。 「彼女は見合い相手だった。何度も言い寄られてしつこかったから、お前を出しに使った」  ……やっぱり、断る口実に使われただけだったんだ。 「しかし彼女も、これで言い寄ってくることは減るだろう。助かった」 「いえ……私も、助かりましたから」  そうだ。  こんなことになったけれど、最初は絶望の底にいた私を、社長が救ってくれたんだった。  社長が話を聞いてくれなかったら、今頃私は――。  婚約者のことを思い出し、目頭が熱くなった。  突然の婚約破棄。  私の嘘に付き合ってくれた、社長。  この人、冷徹御曹司とか仕事の鬼とか言われてるけど、本当は―― 「ウィン・ウィンの関係だったから、俺はお前に持ちかけただけだ」  私の抱いた期待も虚しく、社長は淡々とそう言った。 「でも……社長は、冷徹だとか鬼だとか、色々言われてるけど、この服だって用意してくれましたよね」 「それは服を濡らしてしまった非礼を詫びただけだ。非は謝る。ビジネスの基本だろ」  社長にとっては、そうかもしれない。  でも、私にとっては―― 「それでも、私は嬉しかったんです」
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!