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6ー2 スパイ
「一騎社長は、その女の正体を知ってるのか?」
和成さんが、私をギロリと睨んだ。
その冷酷な視線に、私は一歩後ずさる。
「彼女は私の妻だ」
一騎さんは牽制するように、和成さんに向かってそう言う。
「『彼女は我が社の優秀なスパイだ』の、間違いではなくて?」
その言葉に、会場がどよめく。
スパイ……?
それ、あなた達の方でしょ!
そう思うけれど、この場で声を張り上げてそう言えるわけもなく。
私はぐっと拳を握りしめて、不安なまま一騎さんを見上げた。
彼は、私と目配せをしてくれた。
まるで「大丈夫だ」と、言うように。
「彼女がスパイだという証拠が何処にある? 我が社が御社の情報を盗んだ、とでも言うのか?」
「頭の回転が早くて助かるよ、一騎社長。証拠なら、ここに」
和成さんは、手に持っていた封筒から何枚もの写真を取り出す。
それは、私と元婚約者が笑顔で写る、たくさんの記念写真だった。
「彼は我が社の企画部の部長でね。彼女、社長に命じられて我が社のスパイ活動をしてたんじゃないかって疑ったんだ。いわゆる、ハニートラップってやつ」
「違……っ!」
声を大にしてそう言いたいのに、恐怖で声が出てこない。
それ以上に会場のどよめきが大きくて、私の出した小さな声など飲み込まれてしまった。
「だが、こちらに有益な情報をそちらから盗んだ事実はないだろう」
一騎さんだけが、落ち着いて和成さんと話している。
そうだ。
私は、彼からの情報を、会社になんて――。
「亀嶋さんの、秋発売のKAMEJIMAチョコの新フレーバー。あれ――」
和成さんは、今度は別のA4の紙の束を、その手にぶら下げた。
「――森元製菓の、今秋発売予定で企画を進めていたフレーバーと、全く同じなんだよね」
はっとした。
元婚約者、慎司さんに、一度だけ話した私のボツになった新味案。
私には秘密裏に進められた企画だったけれど、あのフレーバーは、私の発案。
「そんなの言いがかりだろう。たまたま同じ味になっただけじゃないのか?」
一騎さんは毅然とした態度を崩さない。
けれど、その私の表情の変化を、和成さんは見逃さなかったらしい。
「そこの女は、身に覚え有り、って顔してるけど」
それで、会場中の視線が、私に向けられた。
あまりの居心地の悪さに、怖さに、顔をうつむけた。
それで、会場がより一層どよめきを増す。
この誤解を解くには、どうしたらいい?
私がスパイじゃないって証明するためには、彼と交際していた事を明らかにしなければいけない。それも、1ヶ月前まで。
そうすると、今度は一騎さんとの結婚が、愛のあるものではなく、たまたま拾った女との契約結婚だってバレてしまう。
だったら、私が最初からスパイで、一騎さんには関係ないって――
拳をぐっと握りしめ、大きく息を吸い、声をあげようとした、その時だった。
「彼女は、スパイであるはずがない」
私より早く、一騎さんがそう言った。
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