<黄昏 戌の刻> 初更

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<黄昏 戌の刻> 初更

気付けば太陽はその姿を山の向こうに消していた。 それでも尚、 己の存在した証を 残しておきたいとでも言いたげに 残り陽が稜線をはっきりと描いていた。 二本の大小を手にした一双斎と 右の鉤爪を突き出した孤独が 対峙していた。 「貴様は俺には勝てぬ。  どのような人間であろうと  人を殺めるその瞬間は、  本能が無意識のうちに拒絶する。  それは人としての感情故。  どれほど手練れた人斬りであっても  心の奥底にはその僅かな隙が  必ずや存在している。  だが、俺にはその一瞬の隙さえない」 そう言うと一双斎は逆二刀に構えた。 「へっ!  それがどうしたんだよ、兄貴。  そんな一瞬の差が実際にどれほど物をいう?」 孤独が早口に捲し立てた。 「だから貴様は俺に勝てぬのだ。  その一瞬の差が明暗を分けるのが  命のやり取りだ」 どこかで雉鳩が「グーグーポッポー」と啼いた。 先に動いたのは孤独だった。 山からの風が木の葉を舞い上げたその時、 孤独が右手を振りかざして 一双斎へ向けて真っ直ぐに飛び掛かった。 そして一双斎の刀の間合いに入る直前、 孤独の口から霧状の液体が噴出された。 一瞬、一双斎が目を瞑った。 「隙っていうのはこうやって作るんだよ!」 孤独はさらに一歩踏み込んで右腕を振り下ろした。 孤独の鉤爪が空を切った。 寸での所で一双斎が横に身を翻してかわしていた。 しかし孤独は その一双斎の動きを正確に捉えていた。 一双斎に向けてすぐに孤独は左手を振った。 虚空に無数の糸が舞い、 それらが一双斎の頭から降り注いで、 一双斎の全身を絡めとった。 「掛かったな、兄貴。  狙いは鉄糸の方だったのさ」 孤独が「ひっひっひ」と下卑た笑い声を上げた。 「随分と嬉しそうだな」 鉄糸に囚われた一双斎が 顔色一つ変えずに答えた。 「ひっひっひ。  強がるなよ、兄貴。  身動きがとれねえだろ?  この『蜘蛛の巣』に囚われたらお終いよ。  後はこの爪の餌食になるだけだ。  『親殺しはその天寿を全うできず』  親父を手にかけた兄貴は知らないようだが、  夜霧の家には昔からそんな金言があるんだぜ!」 孤独がそう叫んで右腕を振り上げた瞬間、 肘から先がぼとりと地面に落ちた。 一瞬の後、 「うぎゃああああああああああぁぁぁぁ」 という孤独の絶叫が周囲に響いた。 一双斎の左手の『一胴七度』の刀身が 血に染まり赤黒く光っていた。 「己の右腕が斬られたことにも気付かなかったか」 次の瞬間、 一双斎の体に絡まっていた鉄糸が バラバラとなって空に散った。 「こんな戯具が通用すると本気で思ったのか」 「ち、ちきしょおおおおおお」 孤独は懐から鉄糸を取り出すと 左手で素早く右腕を縛り上げ止血した。 空に薄っすらと影が落ちていた。 体に当たる風が僅かに冷たくなった。 美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。 孤独の乱れた呼吸が その面妖な旋律に重なって ある種の不穏な調べを奏でていた。 「親殺しか・・。  なるほど、  貴様にとってはあんな男でも父親だったか」 一双斎がただ無表情に孤独を見ていた。 「・・どういう意味だよ。  それは、兄貴だって同じだろ?  俺達の体に流れているこの夜霧の血こそが  何ものにも代え難き宝だろ。  この血を与えてくれた祖先と親に  忠実であることが夜霧の教えでもあるはずだ。  だからこそ  親殺しの罪は夜霧の血が許さねえ。  兄貴でもそのことは理解してると思ってたぜ」 孤独が斬られた右腕を抑えつつ 怒りの籠った目で一双斎を睨んだ。 そんな孤独の視線を一双斎は歯牙にも掛けず、 さらりと受け流した。 「夜霧の血が許さない・・か。  それで?  どうするんだ、孤独よ?  腕一本で俺とやり合うつもりか?」 感情のない一双斎が 僅かに笑っているように見えた。 雉鳩が騒がしく啼いていた。 その時、突然、孤独が跪いた。 「あ、兄貴。  わ、悪かった。  よ、世継ぎは兄貴に譲る。  い、命だけは助けてくれ」 それから地に頭を擦りつけた。 一双斎の切れ長の目が そんな孤独の姿をじっと見下ろしていた。 当然のように一双斎の表情からは 何の感情も読み取ることができなかった。 「だ、黙ってないで何か言ってくれよ。  ま、まぁ・・確かに兄貴の腕は立つ。  し、しかし陰陽を殺るのは一筋縄じゃいかねえ。  あ、兄貴は一人になった。  い、今までのように『神出鬼没』は使えねえ」 孤独が顔を上げて藁にもすがるような目で 一双斎を見た。 「・・陰陽か。  たしかに厄介な男だ」 「だ、だろ?  だ、だから見逃してくれるのなら、  お、俺様が協力するよ、な、な?  お、俺様と兄貴が組めば鬼に金棒だぜ。  い、陰陽を殺っちまえば、  あ、あとは木偶の闇耳だけだ。  わ、悪い話じゃねえはずだ」 一双斎は黙って空を見上げた。 遠く西の空が 禍々しい雲に覆われているのが見えた。 一双斎が二本の刀をゆっくりと鞘に納めた。 それからくるりと踵を返すと 何も言わずに歩き出した。 「ひ・・ひっひっひ。  流石、兄貴だぜ。  話がわかるぜ」 孤独は恐る恐る起き上がると 左手で着物に付いた土をパンパンと払った。 突風が吹いて木々がざわざわと音を立てた。 その時、孤独の口元が醜く歪んだ。 直後、 孤独は左腕を振りかざして 一双斎へ向かって駆け出していた。 同時に、 一双斎が振り向き様に右手で脇差を抜いた。 その瞬間、 「ぎゃああああああああああ」 という甲高い悲鳴と共に 孤独の体が宙で大きく仰け反った。 そして孤独の体が背中より地に落ちた。 南西から一陣の風が吹いて土埃を舞い上げた。 雉鳩が騒がしく啼いていた。 薄明りの下、 大の字に倒れた孤独の左脇腹に 脇差『空也』が突き立っていた。 一双斎がゆっくりと孤独に歩み寄った。 「貴様はあの男の汚れた血だけを  受け継いだようだ。  卑しく卑怯な人間は生きるに値せぬ」 「あ、兄貴・・」 孤独が苦しそうに口を開いた。 「た、助けて・・くれ」 「貴様も夜霧の人間なら  この期に及んで命乞いなど無粋な真似は  やめておけ」 一双斎の手が 孤独の左脇腹に刺さった『空也』に触れた。 「あ、兄貴・・八苦の叔父が生きてるんだ」 孤独の突然の告白は 一瞬だが一双斎の表情に ごく僅かな変化をもたらした。 しかしそれは動揺と呼べるほど 大きいものではなかった。 それでも感情のない一双斎にしては 稀なことだった。 「ひ、ひっひっひ・・。  や、やっぱり知らなかったんだな・・。  む、無理もねえ・・。  き、兄妹の中でも俺様しかしらねえことだ・・」 「・・言い残すことはそれだけか?」 そう言って一双斎は無表情に孤独を見た。 すでに一双斎は孤独の話に興味を失っていた。 「ま、待ってくれ・・。  そ、その八苦の叔父の姿が消えたんだ・・」 孤独が慌てて言葉を続けた。 「に、逃げたとしたら、俺様にしか探せねえ。  お、俺様の鼻だけが  は、八苦の叔父の匂いを覚えてる・・」 そこまで話して孤独は「ごほっ」と 辛そうに咳をした。 「い、生かしておいたら・・。  か、必ず夜霧の家に  わ、災いをもたらす存在になるぜ・・」 「・・そうか。  貴様の言いたいことはよくわかった」 一双斎の言葉に孤独が安堵の表情を浮かべた。 「だが、俺はこの家の行く末に興味はない」 孤独の目が大きく見開かれた。 「な、なら・・  ど、どうして・・」 一双斎が孤独の脇腹に刺さった『空也』を 何の躊躇いもなく引き抜いた。 孤独の叫び声と共に 赤黒い血が薄暮れの空に噴き出した。 一双斎はしばらくその場に佇んでいた。 そして孤独が絶命したことを確認すると 孤独の小豆色の着物で 『空也』の刀身を三度丁寧に拭ってから 鞘に納めた。 気付けば空は雲で覆われていた。
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