<黄昏 戌の刻> 初更

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<黄昏 戌の刻> 初更

太陽は稜線の向こうにその姿を完全に消していた。 気付けば空は雲で覆われていた。 卯の宅に灯りが点いていた。 男と女がちゃぶ台を挟んで座っていた。 ちゃぶ台の上には酒と、 皿に入った田楽があった。 そして空になった鍋が 畳の上に無造作に置かれていた。 「陰陽は私と狐狸のどちらに  生き延びて欲しかったのですか?」 男のぐい呑みに酒を注ぎながら女が問うた。 「どっちでもいいよ、ボクは」 陰陽は女から視線をそらすとグイっと酒を呷った。 「まぁ!その言葉。  女心をわかっていませんね、陰陽は」 女が口元を手で押さえて「おほほ」と笑った。 「・・あまり兄を揶揄うんじゃないよ」 どこかで雉鳩が啼いた。 女の目が警戒するように陰陽を見つめていた。 一瞬の後、 女は素早く腰を上げてちゃぶ台から離れた。 いつの間にかその手には茜色の鞘が握られていた。 女が太刀を抜くと朱い刀身が現れた。 女は中腰のままそれを構えた。 「二郎みたいにボクを殺すのかい?」 女の表情が驚きへと変わった。 陰陽は澄ました顔で徳利を手に取り、 空になったぐい呑みに 自分で酒を注ぐとゆっくりと一口飲んだ。 それから女の目を見つめ返した。 「ボクに隠し事はできない。  それはお前も良く知ってるだろ?」 「・・まぁ、怖い!」 大袈裟に口を開けて驚きを見せた女の声は 先ほどまでの一二三の声ではなかった。 「二郎には可哀想なことをしたね」 陰陽は開いた障子窓から見える空の方に 視線を移すとクイッともう一口飲んだ。 「その分、良い思いもさせてあげたわよ」 女は太刀を鞘に納めると 立ち上がって帯を解き始めた。 「杜若に八橋」が刺繍された胡粉色の着物が はらりと畳に落ちた。 鴇色の長襦袢に身を包んだ 一二三に瓜二つの姿形をした女が 陰陽に「おほほ」と一二三の声で微笑みかけた。 それからくるりと背を向けると 女は無言のまま長襦袢を脱いだ。 黒く長い髪が女の背中を隠した。 次に女の手が髪に掛った。 その瞬間、 その黒く長い髪がバサリと畳に落ちて その下から短い赤髪が現れた。 同時に雪のように白い背中が露になった。 続いて女はうなじに手を当てると爪を立てた。 バリバリという音と共に 背中の皮膚が裂けて褐色の肌が顔を出した。 さながら蛇が脱皮をするかのような光景だった。 女の足元に抜け殻となった皮膚が落ちた。 女がゆっくりと振り返った。 お椀型の大きな乳房に 薄桃色の乳首がツンと隆起していた。 「二三姉ぇより大きいでしょ?」 そう言って狐狸は両手で乳房を鷲掴みにすると 腰をくねらせた。 くびれた腰から肉付きの良い下半身が伸びていた。 陰陽は黙って女の体を眺めていた。 「どう?  体ならアタシだって二三姉ぇには負けてないわ。  この肌は男に抱かれると熱を帯びて  しっとりと濡れてくるの」 「煩悩の塊だった二郎は  抗えなかったというわけかい」 「陽兄ぃ、アタシを抱いてみる?」 狐狸が艶めかしい目で陰陽に微笑みかけた。 そして陰陽を見つめたまま 狐狸は左手を太腿に這わせた。 その手がゆっくりと太腿の付け根に伸びて 薄い赤毛に触れた。 指先がその赤毛を掻き分けると、 クチュクチュという淫靡な音がした。 狐狸は立ったままゆっくりと指を動かした。 その度にクチュクチュという音が部屋に響いた。 その音は 本宅の方から流れてくる笛の音色に重なって、 妖しく淫らな旋律を奏でた。 「どうして二郎を殺したんだい?  二郎はお前には忠実だったろう?」 狐狸はその問いかけに答えることなく、 自身の左の乳房の固くなった乳頭を 右手の指先で捻り上げて官能の声を上げた。 「・・あふぅ。  あはぁ・・  ・・そんなこと。  どうだって・・  ・・いいじゃない?  アタシの体は・・  ・・もう十分に湿ってるわよ」 そしてくるりと回って お尻を陰陽の方へ突き出すと 挑発するように腰を振った。 「・・遠慮しとくよ」 陰陽は興味無さそうに 目の前の肉感的な尻から目をそらすと ぐい呑みの酒を一口飲んだ。 「ふんっ!  陽兄ぃのそういうところ。  嫌いよ、アタシっ!」 狐狸は陰陽を睨むと、 頬を膨らませて畳の上の長襦袢を拾い上げた。 そして小走りに奥の部屋へと姿を消した。 美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。 しばらくして 「藤に不如帰」 が刺繍された今様色の着物に着替えた狐狸が 戻ってきた。 狐狸は陰陽の向かいに腰を下ろすと、 お猪口を手に取って差し出した。 陰陽が無言でそのお猪口に酒を注いだ。 続いて狐狸が「ふふっ」と微笑んで 陰陽の手から徳利を奪い取った。 そして陰陽のぐい呑みに酒を注ぎ足した。 並々に注がれた酒が 僅かに溢れてちゃぶ台を濡らした。 「どうして二郎を殺したんだい?」 陰陽は先ほどと同じ質問をした。 「『秘密を守る最も簡単な方法は  それを知る人間を殺すこと』  あのくそ親父の口癖でしょ?」 狐狸は笑ってお猪口を呷った。 「女はお前しか残っていない。  姉さんに化ける必要なんてないだろ?」 「アタシが化けてるのは・・いや、いいわ」 狐狸が空になったお猪口を出した。 陰陽は小さな溜息を吐いて ふたたびそれに酒を注いだ。 「・・父さんかい?」 外で雉鳩が啼いた。 狐狸の陰陽を見る表情に驚きの色が浮かんでいた。 「・・知ってたの?」 「ボクはてっきり  お前から誘ったと思っていたが・・」 「そんなわけないでしょ!  アタシは母さんの身代わりだったのよ!  あの男は母さんに化けさせた  アタシを犯してたのよ!」 狐狸はまた一息でお猪口を煽った。 「父さんも相当歪んだ人だったからね」 陰陽が空になった狐狸のお猪口に 三度、酒を注いだ。 「・・だった?  あの男の性根は死ぬまで治らないわよ」 「・・死んだよ、父さんは」 狐狸の手からお猪口が落ちて、 ちゃぶ台を濡らした。 陰陽が皿の田楽に箸を突き刺して一口かじった。 行燈の火が小さく揺らめいていた。 「・・死んだ?あの人が?」 狐狸はお猪口を拾うと、 徳利の酒を自分で注いで立て続けに三杯呷った。 「・・どうして?」 それからぽつりと呟いた。 「ん?」 「どうして殺したの?  いずれアタシが殺るつもりだったのに・・」 二人の視線が交錯した。 「ボクが殺したわけじゃないよ」 「じゃあ誰が?」 「一双斎兄さんだよ」 そう言って陰陽は田楽をもう一口かじった。 「待ってよ、槍兄ぃは孤独が殺したのよ?  二郎が後片付けをしたんだから間違いないわ」 「二郎が処理をしたのは一槍斎兄さんの方だよ。  それに殺したのは孤独兄さんじゃない」 「意味がわからないわ」 「一槍斎兄さんは二子だったんだよ」 狐狸の目が大きく見開かれた。 「一双斎兄さんが自らの手で  自分の分身を消したんだよ。  いや、正しくは分身が  本体を消したと言うべきかな」 「・・知ってたの?」 「いや、ボクが知ったのは  ほんの少し前のことだよ。  恐らく知っていたのは  父さんと母さんだけだろう。  だから兄さんは父さんを殺したのかもしれない。  きっとお前が二郎を殺したのと同じ理由で」 「・・二子の事実を隠すため?」 狐狸が何かを考え込むように 人差し指で唇を触った。 その時、風に揺らいだ外の木々が ざわざわと音を立てた。 「本当にそれだけの理由なのかしら・・」 狐狸が首を傾げて独りごちた。 陰陽が懐から取り出した布切れで 濡れたちゃぶ台を拭いていた。
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