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<人定 亥の刻> 月下
雲が流れ、月が顔を出した。
「・・止んだか」
一双斎が夜空を見上げた。
陰陽はゆっくりと立ち上がると
着物を脱いでそれを裏返して羽織った。
濡羽色の裏地には「柳に燕」が刺繍されていた。
「この傷は致命傷じゃない。
苦無を左肩に受けるために
体を僅かに反らせたせいで
あと一歩が届かなかったね、兄さん」
「次は外さんぞ」
一双斎は静かにしかし力強く言い放った。
「・・やれやれ。
残念だけどその刀はこれ以上、
ボクの体に傷を付けることはできないよ」
そして陰陽は口元を「フッ」と緩めた。
一双斎は地面に突き立っている太刀を引き抜くと
鞘に納めた。
「いくぞ」
一双斎がその身を低くして
陰陽へ向けて一直線に飛んだ。
先ほどと同様に一双斎は右手で抜刀し、
そのまま右薙ぎに刀を振った。
キンッッッッ!
という甲高い音と共に折れた刀身が夜空に舞った。
見ると陰陽の左手には鈍色に輝く鉄扇があった。
「どれほど切れ味が鋭くても。
刀は所詮、人を斬るためのモノ。
この『羅刹』の前では無力」
一双斎は右手に残った折れた太刀の残骸を
じっと見つめていたが、
それを鞘に納めると改めて左手で脇差を抜いた。
白い刀身が月明かりを浴びてキラリと光った。
それから一双斎は陰陽の方を見て徐に口を開いた。
「そういうわけでもなさそうだぞ。
その鉄扇をよく見てみろ」
陰陽が左手の鉄扇に目を落とすと、
鉄扇には小さな傷があった。
そして今、
その傷を中心として鉄扇に亀裂が走った。
次の瞬間、鉄扇がバラバラに砕け散った。
「まさかこの『羅刹』を打ち砕くなんて・・」
陰陽は「ふぅ」と大きな溜息を漏らした。
「・・狐狸の執念か」
陰陽は小さな声でそう呟くと、
懐からすっと一節切を取り出した。
「その縦笛で殴るつもりか?」
「それもいいね」
陰陽がにこりと微笑んだ。
「・・先ほどから聞こえる笛の音は闇耳か。
貴様を殺して闇耳を殺ったら終わりか」
蚊母鳥が啼いた。
「闇耳の龍笛『玄武』の音色は人を魅了する。
でもボクのこの一節切『音無』は
その音を聞いた者を死に至らしめる。
この『音無』は戦国の世において血に染まり、
人から人へと渡り歩いた代物。
かの尾張守や太閤も手にしたという
曰くつきの逸品さ」
「その二人の後の運命を考えると
あまり縁起の良い物ではなさそうだ」
一双斎が興味なさそうに答えた。
風が吹いて陰陽の長い髪が乱れた。
陰陽が妖艶な仕草でその髪を掻き上げた。
「人は皆、いずれ死ぬ運命。
たとえ志半ばで死のうとも、
後の憂いを抱いたまま息を引き取ろうとも、
それ故に不幸な生涯だったとは断言できない。
どう生きたか、どう生き抜いたか。
それが人の価値じゃないのかい?」
「何が言いたいのかわからんな。
とにかく。
これ以上、
貴様の御託に耳を傾けるつもりはない」
一双斎が左手に持った脇差を上段に構えた。
「続きは閻魔の前で思う存分、語るがいい」
周囲の闇の中で月明かりに光る『空也』が
ある種の異彩を放っていた。
「閻魔の顔を拝むことになるのはボクじゃない、
兄さんだよ!」
そう叫ぶと陰陽は一節切を水平に構えて
口に咥えた。
次の瞬間、
「ブンッ」という低い音が鳴ると同時に
一双斎が構えた脇差を振り下ろした。
キンッという甲高い金属音が鳴り響いて、
一双斎の足元に五寸針が転がった。
「月明かりがあるとはいえ、よくかわしたね。
流石だよ、兄さん」
「貴様にしろ、孤独にしろ。
このような戯具が俺に通用すると
本気で思っているのか?」
その時、一双斎の体がぐらりと揺れた。
「ようやく効いてきたようだね」
「・・痺れ薬か」
「さっきの苦無に仕込んでおいたんだよ。
この痺れ薬は足にくるだろ?
これで兄さんの自慢の神速は使えない」
すると陰陽は構えた一節切を下ろした。
「・・少しだけボクの話を聞いてくれないか、
兄さん」
月明かりが二人をぼんやりと包み込んでいた。
一双斎が脇差を鞘へ納めた。
それを見て陰陽が徐に口を開いた。
「・・狐狸が死んだ今、夜霧の家に女はいない。
でもボクがいれば夜霧の家は安泰だ」
そう言って陰陽は夜空を見上げた。
一双斎も釣られて陰陽の視線を追った。
暗く無限にも広がる空に
美しく煌めく望月が
ぽつんと寂しそうに浮かんでいた。
「兄さんは、
なぜ母さんがボクに陰陽と名付けたのか
その理由を知ってるかい?」
一双斎はそれに答える代わりに小さく首を振った。
直後、
二人の間に小さなつむじ風が起こって
木の葉を舞い上げた。
「それはボクが陰と陽の二つの性質を併せ持って
生まれてきたからだよ」
「・・二つの性質、だと?」
一双斎の眉が僅かに動いて
陰陽を真っ直ぐに見据えた。
「ボクの体は男と女、二つの特性を備えている」
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いていた。
「ボクは兄さんの子を産むことができる。
ボク達二人なら夜霧の家を守っていける」
陰陽の四白眼が正面から一双斎を見つめ返した。
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