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<人定 亥の刻> 愛憎
「・・貴様にしろ孤独にしろ、
どうやら思い違いをしているようだ」
「・・思い違い?」
陰陽の目に微かな動揺の色が浮かんだ。
「俺の目的は夜霧の血を守ることではない。
夜霧の血を絶やすことだ」
その時、雲が流れ月を隠した。
闇が二人を包み込んだ。
「俺達兄妹に流れている血は呪われている」
その闇の中で一双斎の声が響いた。
「・・呪われている?」
聞き返した陰陽の声が僅かに震えていた。
「『地獄耳』の貴様が知らぬわけではあるまい。
俺達兄妹は八爪の醜い欲望と身勝手な嫉妬から
生まれてきたということを」
陰陽が小さく溜息を吐いた。
「・・そんな理由で
兄さんは父さんを殺したのかい?」
「そんな理由だと?
あの男の本性を知りながら
まだ父と呼ぶか、陰陽?
あの男こそ母の仇だぞ」
夜風が木の葉を舞い上げた。
雲が流れふたたび月が顔を出した。
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いた。
「・・不思議だよ。
感情のない兄さんが
どうしてそんなに母さんを気にかけ、
父さんを憎むのか」
月明かりが二人を照らすと
一双斎の若芽色の着物に描かれた
「芒に月」の刺繍と
陰陽の濡羽色の着物に描かれた
「柳に燕」の刺繍が
ぼんやりと夜に浮かんだ。
その時、一双斎が静かに口を開いた。
「俺達二子には感情がないわけではない。
正しくは俺達はそれぞれただ一つの感情だけを
母とあの男から受け継いで生まれてきたのだ。
俺は母から『愛』の感情を。
弟の槍はあの男から『憎』の感情を。
そして母が俺達に付けた
字は『想』と『争』だった」
「・・『一想斎』と『一争斎』」
陰陽はその長い髪をそっと触ってぽつりと呟いた。
「争は常に憎しみを心の内に飼っていた。
憎しみという感情は
場合によっては途轍もない力を生み出す。
ある意味、
争はもっとも稼業に向いてる人間だった。
貴様が父と呼ぶあの男にはそれがわかっていた。
対して愛しか知らぬ俺は
この家に必要のない人間だった。
一二三が生まれたその日に
不要な存在である俺は殺されるはずだった。
その俺を救ってくれたのが母だった。
母は俺が争の影として生きることを提案し、
あの男は母の提案を受け入れた。
こうして生まれたのが、
貴様も良く知る『神出鬼没』というわけだ」
そこで一双斎は顎の無精髭を軽く撫でた。
夜風に着物の裾がそよいだ。
「俺は午の宅で密かに育てられた。
兄妹の誰の目にも留まらぬよう、
俺は息を殺して影のように生きてきた。
当然、孤独の鼻も警戒していた。
しかし、
それ以上に警戒していたのは
貴様の『地獄耳』だ」
「・・ボクの『地獄耳』のことは
母さんに聞いたんだね」
陰陽が納得したように頷いた。
「母は常に俺のことを気にかけていた。
あの男の指南により
争の剣術の腕はめきめきと上達していった。
母は俺が争に後れを取らぬようにと
俺に書物を与えた。
俺はその書物で剣術を学んだ。
夜霧の血が流れている俺にとっては
座学だろうが実践だろうが
大した問題ではなかった。
そして元々二子である俺と争は
剣術の才においては殆ど差がなかった。
いや、
俺の方が僅かに優れていたのかもしれん。
それに母が俺に与えた書物は
稀代の天才としてその名が知られた
剣豪の書いた奇書だった」
そこまで話すと一双斎は一度口を噤んで
陰陽を見た。
陰陽も一双斎をじっと見つめていた。
「・・兄さんの中のただ一つの感情である
『愛』は自分を守り育ててくれた
母さんに向けられたんだね」
そう呟くと陰陽は大きく溜息を吐いた。
一双斎は陰陽の問いには答えず、
ふたたび話を続けた。
「ある昼下がり、
俺が母の膝枕で休んでいると
母が独り言のように八爪との因縁を語り始めた。
母は俺が寝ていると思ったのだろう。
その母の話で俺はあの男の業を知った。
その時からだ。
俺は母に代わって
あの男に復讐することを誓った。
あの男は俺の手で殺す。
その上でもっとも邪魔だったのが争だった。
争はあの男の忠実なる下僕だったからな」
陰陽が微かに頷いた。
「そんなある時、
滅多に顔を見せぬ争が
俺の許を密かに訪ねてきた。
交わした言葉は二言、三言だったが、
その時、俺は
争が俺の思惑に気付いていることを悟った。
争があの男に告げることも僅かに考えられたが、
恐らくそうはしないだろうと思っていた。
それでもなるべく早く
争を始末する必要があった。
それからしばらくしたある日、
俺は争の湯呑に毒を仕込んだ」
「あれは・・兄さんが?」
陰陽の顔に驚きが広がった。
「しかし残念ながら争は命を取り留めた。
が、片目を失い、
それにより刀を捨てざるを得なくなった。
代わりに争は槍を手にして
自ら『槍』を名乗った。
そして俺は争の捨てた刀を手に取り、
二刀の道を極めんと『双』の字を当てた」
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いた。
「等しき才を持った二子のうち
一人が隻眼となれば、
その者は決して片割れには勝てん。
つまり争はもはや俺の敵ではなく、
あの男を殺るのに障壁はなくなった。
そしてあの男も以前までのように
争を贔屓にすることはなかった。
あの男は争に代わって狐狸に目を付けた。
それまでは
お遊び程度に稽古をつけていた狐狸に
本格的に指南を始めた。
狐狸の恵まれた体躯は
剣術に向いていたのだろう。
その狐狸を貴様が倒すとは、
やはり殺し合いは
腕だけではどうにもならぬものだな」
ふたたび雲が月を覆い隠した。
夜霧の敷地に闇が落ちた。
「・・もうやめにしないか、兄さん?
父さんを殺して兄さんの復讐は終わった。
それでいいじゃないか?
これからはボクと二人で
夜霧の家を守っていこう」
「それはできぬ相談だ」
「どうして!
夜霧の血を絶やすというのなら
兄さんの体に流れている血はどうするの!」
陰陽の叫び声に蚊母鳥の啼き声が重なって
闇夜に響き渡った。
その問いに答える代わりに
一双斎がふたたび顎の無精髭を軽く撫でた。
「話は終わりだ」
そして一双斎は左手で脇差を抜くと上段に構えた。
「『一胴七度』は折れて、
自慢の足も奪われた。
一人になった兄さんは
当然『神出鬼没』も使えない。
兄さんに残されたのはその脇差一つ。
対してボクにはこの耳と『音無』がある。
ボクは兄さんの間合いに入らずに
攻撃ができるんだよ」
「貴様相手には丁度いい縛りだろう」
「・・どうしても引けないのかい、兄さん?」
闇に包まれた一双斎の口元が一瞬、
笑ったように見えた。
陰陽の憂いを帯びた四白眼が
一双斎を見つめていた。
「本当に・・。
一槍斎兄さんにそっくりだ。
その目でボクを見ないでくれよ、兄さん。
そしてその声で
一槍斎兄さんが決して言葉にしないことを
口にしないでくれよ。
一二三姉さんだからボクは・・」
陰陽が誰にも聞こえぬくらいの小さな声で呟いた。
一双斎がわからないという風に首を振った。
陰陽の表情に微かな落胆が見えた。
「・・仕方ないね。
いくよ、兄さん!」
陰陽が何かを吹っ切るかのように叫んで、
一節切を口に当てた。
直後、「ボゥ」という低い音が空気を震わせた。
同時に一双斎が脇差を振り下ろした。
キンッという音が鳴って五寸針が地に落ちた。
間髪を入れず陰陽は一節切を吹いた。
一双斎が素早く脇差を振り上げると
キンッという音と共に五寸針が空に舞った。
すぐに次の音が鳴った。
音と同時に一双斎は左に転がった。
五寸針が一双斎の着物の裾を掠めた。
さらに「ブブンッ」という音が鳴った。
一双斎は身を起こすと素早く脇差を振った。
キンッという音と共に五寸針が地に転がった。
「むっ」
次の瞬間、一双斎が右膝を地についた。
一双斎の右の太腿に五寸針が突き刺さっていた。
「一本目はかわせても
直後の二本目はそうはいかない。
これが『音無』の妙技『二枚舌』だよ。
どうする、兄さん?
まだ続けるかい?」
陰陽が一節切を下ろした。
一双斎は右手で五寸針を引き抜くと
ゆっくりと立ち上がった。
「こんな戯具じゃ俺の命までは奪えないぞ」
「いいんだよ。
ボクは功を焦らない。
ゆっくりと確実に兄さんの体力を削っていく。
・・兄さん、考え直してくれないか?
ボクは兄さんを殺したくないんだ」
「それほどまでにこの家が大切か、陰陽?」
「ボクが大切なのは・・」
何かを言いかけたものの、陰陽は口を閉ざした。
そして誰にも聞き取れないほどの
小さな声で呟いた。
「・・母さんを愛した兄さんに言っても
仕方がないか」
陰陽が僅かに悲しそうな表情を浮かべた。
そして大きく息を吐くと、
陰陽は懐から「煙玉」を取り出した。
陰陽は素早くそれに火を点けると前方へ転がした。
煙玉は細い煙を吐き出しながら
コロコロと転がって
二人の間合いの半ばまでくるとピタリと止まった。
直後「フシュー」という音と共に
煙がもくもくと立ち上がった。
あっという間に二人の姿が白煙の中に消えた。
「どうだい、兄さん?
人が夜の闇を恐れるのは
動物としての本能らしいよ。
つまり。
人は視界を奪われると最も恐怖を感じるんだ」
白煙の中から陰陽の声が聞こえた。
「この煙の中でも
ボクには兄さんの動きが手に取るようにわかる」
直後に「ボゥ」という低い音がした。
同時にキンッという音が夜空に響いた。
「なるほど。
・・闇耳の気持ちが
多少なりとも理解できるというものだ」
一双斎の声が白煙の中で微かに聞こえた。
「その余裕、いつまで続くかな、兄さん?」
そしてまた「ボゥ」という低い音がした。
直後、キンッという音が白煙の中から聞こえた。
しばらくの間、
一節切の短い音色と
その直後に金属がぶつかり合う音が
代わる代わる周囲に木魂していた。
「流石だよ、兄さん。
でもこの白煙の中、
妙技『二枚舌』はかわせないよ」
陰陽の声に続いて
「ブブンッ」という音が響いた。
直後に、キンッという音と共に
「ぐっ」という一双斎の唸り声が聞こえた。
「左脚かな?
これで兄さんの足は完全に封じられた。
どうする?兄さん。
敗けを認めるなら命までは取らないでおくよ」
「俺から一つ忠告してやろう。
陰陽、相手を殺せる時は迷わず止めを刺せ。
情けにしろ油断にしろ、
機を逃せば貴様自身が命を落とすことになる」
「ボクの心配よりも
自分の置かれた状況を考えた方がいいよ。
これまでは敢えて急所を外してたんだ。
次は急所を狙うよ、兄さん」
雲間から月明かりが射した。
「陰陽。
次に貴様がその縦笛を吹いた時、
それが貴様の最期となろう」
「その言葉、兄さんにそっくり返すよ!」
白煙の中、
一節切の音が「ブブグフゥ」と鳴った。
次の瞬間、
「ぐふぅ」というくぐもった声がして、
何かがドサッと地面に倒れる音がした。
少し遅れて小さな溜息が聞こえた。
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