<夜半 子の刻> 幻夜

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<夜半 子の刻> 幻夜

雲が月を隠した。 縁側に座っていた闇耳が 倒れた一双斎の背に突き立っている 『空也』の柄を呆然と見つめていた。 それから徐に立ち上がった。 「幻、夜、姉、ちゃ、ん・・」 闇耳の赤と緑の瞳がまっすぐに私を捉えた。 私は大きく息を吸い込んでから ゆっくりと吐き出した。 そして闇耳の目を見て小さく頷いた。 たった今、 一双斎の背に『空也』を突き刺した時の感触が 残っていて私の手は僅かに震えていた。 『その右腕。  手当をしないといけませんね』 私はもう一度大きく息を吸ってから 闇耳に微笑みかけた。 「だ、大、丈、夫・・」 闇耳が照れたように小声で呟いた。 『駄目です。  その五寸針に  何らかの毒が仕込まれていたとしても  不思議ではありません。  そこに腰掛けて腕を出しなさい』 私は少し強い口調でそう諭した。 「う、ん・・」 闇耳は私の言葉に素直に従った。 縁側に腰掛けた闇耳の横に私も腰を下ろした。 私が闇耳の右腕に刺さった五寸針を引き抜くと、 闇耳は「うっ・・」と顔を歪ませた。 『我慢なさい、男の子でしょう』 私がそう言うと 闇耳は恥ずかしそうに頬を赤らめた。 闇耳が着物を開けて右腕を出した。 私は懐から取り出した傷薬を その傷口に丁寧に塗り込んで その上から白い布を巻いた。 『これで大丈夫です』 雲が流れふたたび月が顔を出した。 私と闇耳は縁側に並んで腰掛けて 望月を眺めていた。 時折、蚊母鳥が啼いていた。 『これで夜霧の家に残ったのは  私達二人だけですね』 私は庭に転がっている 一双斎の亡骸に視線を移した。 「う、ん・・」 闇耳が私の横顔を見つめているのがわかった。 『これもすべては闇耳のおかげです。  おまえには感謝しないといけませんね』 私は闇耳の方を向いて微笑んだ。 闇耳が照れたように視線をそらせた。 私は『ふふっ』と小声で笑って、 ふたたび夜空に浮かぶ望月を見上げた。 闇耳の龍笛『玄武』の音色は人を惑わす。 そして闇耳の奏でる数々の旋律。 その中でも人の内なる不安を煽り、 狂気に駆り立てる『乱』。 それは私の期待以上の成果をもたらした。 私は今回の世継ぎ争いの一部始終を この目で見てきた。 弟妹達の死に顔を間近で拝んできた。 私が最初に手にかけた予見。 こんな私でも簡単に殺すことができたか弱き妹。 十三夜のあの日、 一双斎との情事の後の疲弊した予見を私は襲った。 そして私は警告の意味を込めて予見の亡骸を 父、八苦の体に見立てて装飾した。 予見の亡骸を見た八爪は きっと肝を冷やしたことだろう。 その予見の死がきっかけとなり 世継ぎ争いの幕が開けた。 一双斎に殺された一槍斎。 狐狸に殺された一二三と二郎。 八爪をこの手で殺せなかったのは心残りだが、 あの男の亡骸は父の代わりに 座敷牢で朽ちてゆくだろう。 一双斎に殺された孤独。 陰陽に殺された狐狸。 その陰陽は一双斎に敗れて、 一双斎は今まさに 目の前で息を引き取ったばかりだ。 そして・・ 私は隣に座っている闇耳に視線を戻した。 闇耳は右腕の傷が痛むのか しきりに腕を擦っていた。 『大丈夫。すぐに楽になるから』 私は優しく囁いたが、 闇耳はこちらを見ていなかった。 夜風に着物の裾がはためいた。 私が着ている母の形見の勿忘草色の着物には 「菊に盃」 が刺繍されていた。 「ね、姉、ちゃ、ん・・ど、こ・・?」 闇耳はキョロキョロと周囲を見渡してから、 私の方へ顔を向けた。 そして闇耳は目を凝らした。 『馬鹿ね、私はずっとここに座ってますよ』 「本、当、だ・・」 闇耳が安堵の溜息を漏らした。 素直で優しい闇耳。 美しく可愛い私の弟。 誰の目にも留まらぬ私とは大違い。 夜霧八爪は 母のお腹の子が父、八苦の子だと知っていて、 敢えて母に私を産ませた。 生まれた私を父と共に殺すつもりだったようだ。 私は八爪の憎悪の籠った殺気に晒されながら 母のお腹の中で十月十日を過ごした。 母は賢く、勘の鋭い人だった。 初めから八爪の企みに気付いていた。 だからこそ母は午の宅にて一人で私を産んだ。 母の持つ不思議な力のせいか、 それとも私に流れる夜霧の血がそうさせたのか、 胎児の時から殺意に晒され続けた私は 生まれた時から身を守る術を身に付けていた。 夜霧の者は人にあらず。 私は母のお腹から生まれ出たその瞬間から、 誰の目にも留まらぬ存在だった。 姿が消えているわけではない。 私という存在はきちんとその場に存在している。 しかし、 誰も私を認識しようとしない。 認識できなければ存在していないのと同じこと。 まさに幻。 それが私だった。 母でさえ、 私をはっきりと認識していたわけではなかった。 私の声は誰にも届かない。 私は声を失って生まれてきた。 それは母の呪いではない。 母から私への贈り物だ。 姿も見えず、声の出せない私を それでも母は、女としての本能からなのか 身近に感じていたようだ。 その証拠に 母は度々独り言のように私に語り掛けていた。 私が字を覚えてからようやく 母と意思疎通ができるようになった。 私が紙に書いた文字を母が読む。 そして母は独り言のように呟く。 これが母娘の意思疎通の手段だった。 そんな私を初めて認識したのが闇耳だった。 闇耳の「千里眼」だけが私を見つけ、 耳の聞こえぬ闇耳だけが 私の口の動きで私の言葉を理解することができた。 誰の目にも留まらぬ存在である私。 生まれながらにして聴力を失い、 盲目と偽って己の殻に閉じ籠り生きてきた闇耳。 私達はすぐに心を許し合った。 しかし、 母は私と闇耳が恋仲になることを 良しとしなかった。 それほどまでに母はあの男を憎んでいた。 あの男の血を後世に残すことは 母にとっては許し難きことだったのだ。 それでも母は闇耳に優しく接していた。 誰にも知られてはいけない 私という存在を認識している闇耳を 飼いならそうとしたのか。 それとも闇耳の笛の音が 夜霧の家を滅ぼすことを予感していたのか。 生前、 母があの男を説得して 一双斎を一槍斎の影として生かし続けたことも。 そして一双斎を我が元に置き、 その愛を自らに向けさせたことも。 陰陽の体の秘密を隠し男として育てたことも。 狐狸に剣術を学ばせ、 彼女に『童子切安綱』を遺したことも。 すべてはあの男の血を断つため。 たとえその姿が認識されていないとはいえ、 武術の心得のない私には 弟妹を殺すことは至難の業だっただろう。 そのために母は 長きにわたって準備をしていたのだ。
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