<夜半 子の刻> 錨星

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<夜半 子の刻> 錨星

月明かりが夜霧の屋敷全体を 優しく包み込んでいた。 本宅の艮の間の縁側に 私達は肩を並べて腰掛けていた。 蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いていた。 闇耳は目を閉じると龍笛『玄武』を口に当てた。 蚊母鳥の啼き声に重なって 物悲しく、それでいて心地良い旋律が 辺りに響いた。 『闇耳。  今までありがとう。  お前は期待以上の働きをしてくれました。  あの世で母も喜んでいることでしょう』 隣で目を閉じて笛を吹いている闇耳に 私の言葉は届かない。 闇耳の美しく、それでいて幼さの残る横顔を 私は無言で見つめていた。 夜風に闇耳の髪がなびいた。 視力を失ったと偽ることになった幼きあの日より 笛と共に生きてきた可愛い弟、闇耳。 私は闇耳から視線をそらすと 庭の方を向いてその笛の音に耳を傾けた。 その音色は私の郷愁を誘った。 私と闇耳が初めて言葉を交わしたあの日が 思い出される。 どこからともなく聞こえてくる笛の音に誘われて 私は裏山の獣道を一人で歩いていた。 鬱蒼と茂る木々に囲まれたその道は 昼間だというのに暗くじめじめとしていて どことなく不気味だったが、 その笛の音が 私に小さな勇気と大きな好奇心を与えた。 しばらく進んでいくと突然、視界が開けた。 眼下に広がる景色を一望できるその場所で 泥眼の面をつけた幼き闇耳が一人、 笛を吹いていた。 私は足を止めて闇耳の笛の音に聴き入った。 しばらくして、突然笛の音が止んだ。 泥眼の面から覗く瞳が真っ直ぐに私を捉えていた。 この時、 闇耳は私という「幻」を認識し、 私は闇耳の「千里眼」を知った。 それから。 時折、私達はその場所で 二人で過ごすようになった。 初めのうちは警戒していた闇耳も 次第にその心を開くようになった。 やがて 私達はお互いにとって大切な存在になっていた。 闇耳の笛の音に 私はこれまでも随分と救われてきた。 闇耳の笛の音だけが私の心の拠りどころだった。 それは枯れた大地に降る恵みの雨 といっても過言ではなかった。 耳の聞こえぬ闇耳が どうしてこのような旋律を紡ぎ出しているのかは 謎だった。 闇耳に聞いても 困った顔をして首を傾げるだけだった。 奇術の種明かしは掟破り。 昔、母の所有していた書物に そんな文言が書かれていたことを思い出して、 私はそれ以上考えることを止めた。 それでも闇耳の奏でる笛の音は 聴く者の心に訴えかける。 闇耳は笛に関して 天賦の才を授かって生まれてきたのだ。 今、私の心は穏やかに落ち着いていた。 その時。 突然、笛の音が乱れた。 次の瞬間、闇耳の手から笛が落ちた。 闇耳が胸を押さえて苦しそうに藻掻いていた。 「う、ぐぅ、ぐっ・・」 そして闇耳は地べたに倒れ込んだ。 仰向けになった闇耳の体が痙攣していた。 私は立ち上がって闇耳の側へ寄った。 闇耳の瞳がしばらく空中を彷徨い、 程なくして私を捉えた。 「姉、ちゃ、ん・・」 闇耳が苦しそうに口を開いた。 私はそんな闇耳を無言で見下ろしていた。 蚊母鳥が騒がしく啼いていた。 『闇耳。  お前が母を殺したことはわかっていました』 闇耳の目が大きく見開かれた。 それは驚きからなのか それとも苦しみからなのか 私にはわからなかった。 『なぜ、母を殺めたのです?』 これまで聞きたくても聞けなかったその問いを 私は闇耳に投げかけた。 闇耳が苦しそうに口を動かした。 しかしその口から言葉は発せられなかった。 『母が私達の将来について  快く思っていなかったからですか?』 私の更なる問いかけに闇耳は顔を歪めた。 その表情がすべてを物語っていた。 私は小さく頷いた。 愛という感情は人を狂わす。 それを否定する者がいるとすれば、 その者は本当の愛を知らない。 ただそれだけのこと。 それも 母の所有していた書物に書かれていた言葉だ。 『先ほど、傷口に塗ったのは  「定家葛」の葉と  「夾竹桃」の根を調合した毒薬です。  孤独の家から持ってきたのです』 闇耳の顔が奇妙に歪んだ。 『まず体が痺れて全身に倦怠感が広がるでしょう。  そしてすぐに激しい頭痛と腹痛に襲われます。  嘔吐と眩暈にも苦しむことになるでしょう。  最終的には全身が麻痺して  呼吸ができなくなり窒息死する。  そう孤独の手帖には記されてありました。  あなたの父であるあの男曰く、  窒息死がこの世で最も苦しい死に方  らしいですよ』 闇耳の赤と緑の瞳がぐるぐると虚空を彷徨った。 大きく開いた口から胃液が血と共に吐き出された。 そして手足が雷に打たれたように痙攣した。 闇耳の口が餌を求める池の鯉のように パクパクと動いていた。 『「親殺しはその天寿を全うできず」  昔から夜霧の家に伝わる金言だそうです』 闇耳の口が何かを言いたそうに動いた。 が、言葉は発せられなかった。 夜風に髪がなびかぬよう、 私はそっと後ろ頭を押さえた。 蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いた。 その囀りに私は一抹の寂しさを覚えた。 やがて闇耳の呼吸が完全に止まった。 その目と口は大きく開かれ 可愛い闇耳の死に顔は醜く歪んでいた。 私は光を失った闇耳の瞳の先を追って 夜空を見上げた。 錨星が見えた。 私にはその形が微笑んだ時の闇耳の唇に見えた。 『さようなら、闇耳』
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