雪、波、百円玉。

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雪、波、百円玉。

 彼女はスノードームが好きだ。  僕が幼稚園の年長のとき、商店街の大人たちが町おこしのためのワークショップを企画した。  今でこそ有名になったが、当時はまだ十店舗ほどしか出店しないひっそりとしたイベントだった。なんでこんな寒い時期に、わざわざ海辺でイベントなんかやるんだろう、と小さい頭で思っていたのを覚えている。  うちのガラス工房は、クリスマス用の置物や飾りを売るほかに、スノードームづくりの体験教室をやっていた。  手のひらサイズのガラスコップに、工房で出たいらないガラスのかけらや、サンタさんやトナカイなどの小さな人形を入れて、専用の液体を流し込むというごく簡単なもので、値段は二百円。小さな子供を対象にしたものだった。  よく覚えていないが、体験教室はそれなりに人気だったと思う。それよりも小さなガラス破片が海風に飛ばされ大変だった記憶の方が強いけれど。  僕は販売の対応に忙しそうな父と祖父を横目に、祖母と一緒にスノードーム体験の受付をしていた。客の来る頻度はたしか、一時間に三組くらい。予想よりずっと繁盛していたのは間違いないが、僕は料金をもらう係で、あとは祖母に説明を任せるだけだ。たいていは暇だった。  大半の時間をお絵描きしたり、うとうとしたりしながら過ごす。  三日間にわたり開かれるワークショップの最終日、お昼過ぎだっただろうか。  あまりに暇で海に遊びにでも行こうかと顔を上げたとき。ちょうど目線の先に、自分と同じくらいの年の女の子が、こちらをじっと見つめているのを見つけた。  祖母が不思議そうに首をかしげる。 「あの子、さっきからずっとああしているんだけど、どうしたのかしらねぇ。」  僕は走った。  なぜだか分からない。どうしてか、その時僕は行かなきゃ、と思ったのだ。とっさに。 「どうしたの?」  僕がそちらに進んでいく間、女の子はずっと僕のことを見ていた。泣きそうな目で、でもまっすぐに。穴が開きそうなほどに。  しかし、見つめられるだけで僕が懸命に話しかけても何も言ってくれない。 「だいじょうぶ?」  上がった息を落ち着かせながらそう聞くと、女の子はうつむいて言った。 「すのーどーむ」 「え、」 「スノードーム、つくりたい」  たかが二百円のスノードームについて言っているとは思えないくらい、真剣な目をしていた。たぶん当時の僕は、しんけんなんて言葉は知らなかっただろうけど。 「むこうでやってるよ。いっしょにいこう?」  顔を覗き込んでそう言ってみるが、女の子は首を横に振る。 「?」  すると、女の子はゆっくり、握りしめていた拳を開いた。  力を入れ過ぎて真っ赤になった手の中にあったのは、一枚の百円玉。 「ひゃくえんしか、もってこなかったの」  そういうことか。  女の子は、持ってきたお金が足りないことに気づいて、こちらに来られなかったのだ。  どうにかできないものか。小さな頭で少し考えて僕は、あっと思い出す。 「だいじょうぶだよ!」 「えっ?」  僕はズボンのポケットを探り、出した拳を女の子の前でぱっと開く。 「ほら、ぼくもひゃくえんだま、いちまいもってたから、あげる。あわせれ、にひゃくえん!」  目をまん丸にした女の子の手の中にそっと百円玉を落とす。チャリン、と優しい音がした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  僕は冬が好きだ。  出会ってから十五年。彼女は、冬になるとあらゆる雑貨屋に突入し、片っ端からスノードームをひっくり返す、という謎の習性を持つ変な大人に成長した。  彼女はスノードームが好きだ。いや、びっくりするくらい好きすぎる。だから、 「はい、これ」 「んー?……え!なにこれ!」 付き合って三年、記念日のプレゼントプレゼントにはスノードームを選んだ。 「すごい!え、作ったの?」 「作ったよ?」 「はぇー、たいしたもんだわ」 「これでもし市販だったらガラス職人として終わってるだろ」 「ふふ」  両手で持ってちょうどいいくらいの少し大きめなサイズ。ドームの中では、大きなツリーのそばで、彼女と僕をイメージしたガラス人形がベンチに座って夜空を見上げている。雪にはドームを傷つけないよう限界まで細かく砕いた色とりどりのガラスを交ぜ込んだ。 「これって、もしかしてここ?」  彼女がドームのなかの一点を指さして聞いた。 「そう、ここ」  人形の座っているベンチは、僕たちが初めて会った海辺のベンチだ。今、座っているベンチ。  僕はプレゼントを手渡す場所にこの海を選んだ。おかえり、と言ってくれているのか、冷たいはずの冬の波の音が心なしか温かい。 「ほわわー、すごいや。さっすが職人」 「どうぞ、好きなだけひっくり返して?」 「ひゃー。え、いや、これ売ってたらおいくらくらいよ?」 「まあ、二千円くらいかな」 「げ。あの時の十倍じゃん。私も年取ったわぁ」 「そうだね。十五年だもんな」 「もう、十五年か。」  スノードームを見つめていた彼女の目が、ふっと遠くを見る。月明かりに照らされた水面を揺らしながら波が静かに砂浜を濡らしていた。  しばらく二人で、何も言わずそれを眺めた。  最初に気づいたのは、彼女だ。 「え、……雪?」 「おお、ほんとだ」 「雪だぁーっ」  何の前触れもなかった。確かによく見ればスーツにぽつぽつと白く光るものがある。見上げれば街灯の光に粉雪が舞っている。 「うふふ」 「ん?」 「なんか、スノードームの中にいるみたい」 「ああ」  彼女はスノードームを高く持ち上げて天から降ってくる雪に重ねる。この時間を閉じ込めて取っておけたらどんなに幸せか。  おかしな妄想に浸っていると、 「いや、」 楽しそうにしていた彼女が唐突に言う。 「寒い!」 急に真剣な顔をしてそんなことを言うものだから思わず笑ってしまった。 「ちょっと。なに笑ってんの。真冬の海で雪はさすがに寒い!」 「そろそろ帰ろうか。それとも何か温かい飲み物でも買いに行く?」 「……そこの自販機で買ってきてくれてもいいんだよ?」 彼女が指さす方を見ると確かに十メートルほどしかないところで自販機が立っている。 「……仕方ないなぁ」 「やったぁ!ココアね」 「はいはい」 「あ!全部百円って書いてあるね」 「ほんとだ」 「はい、じゃあこれ」 彼女が僕の手を掴んで置いたのは、百円玉が二枚。 「百円でいいよ」 「いいのー。スノードームもらったし」 「いいって」 「今更割り勘とか気にしなくていいのに」 「……」 言いたくなった。から、彼女に百円を返した。 「ん?いやだから」 「大丈夫!」 彼女の言葉を遮る。小銭入れを探って、 「ほら、僕も百円玉、一枚持ってるから、さ」 彼女が、僕の心の内を察して小さく笑う。そして二人、声をそろえて言った。 「「合わせたら、二百円!」」  僕らの笑い声が、肩の雪を解かしていく。  今年も、大好きな冬がやって来た。
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