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1.
「もうダメだー!」
善行のスーツの上着の裾が引っ張られる。右側のポケットをぐいっと広げてヤツが屈んで顔を近づけた。大げさに奇声をあげてそこに吐く素振りをする。夜の街は昼より明るい。甲高い女の悲鳴、下品な男たちの笑い声、どこか遠くで鳴り響くような喧騒の中に立ち尽くす。楽しいのか? おまえらはそれが楽しいのか? だったら死ぬまでそうしていればいい。人生なんて楽しんだもん勝ちだよな。だけど自分は抜けさせてもらう。おまえらとは価値観とやらが違うんだわ。
「オエッ」
ヤツの間抜けた声に一瞬辺りがシンとなった。顔を上げた強い目ヂカラが周囲を捉える。笑うところだろと圧をかけられた民どもが一斉にどよめく。
「課長ダイジョブですか!?」
「もうビックリしましたよー! 課長の演技と笑い最高ですッ! 芸人レベルですよね!」
「ハンカチ出すの遅くなってすみませーん、でも平本さんのポケットがあってよかったぁ」
「おい! 平本善行! シラけた顔してんなよ! ノリ悪いな、だからおまえはいつまでたってもヒラなんだよ! ギャハハ!」
善行より2歳年下の係長の原田はこれ見よがしに「平社員の平本」を強調する。たまたま運がよかっただけだろう。仕事ぶりはイマイチでたいした学歴があるわけでもない原田が新卒3年目で昇進したのは上司受けが良いからだと噂されている。課長の清水の腰巾着だとも言われている。
居酒屋の出口を塞ぐ集団に通り過ぎる歩行者は無関心だ。馬鹿で幼稚な上司を担ぎまくるサラリーマンなんてそこらへんに腐るほどいる。面白いことでもなんでもない。特定の人物をターゲットにするなんてのもありふれた話だ。めずらしいことでもなんでもない、
「じゃ電車なくなるのでお先に失礼します」
歩き出した善行の背中にさっきまで悪ふざけしていた清水の冷めた声が届く。
「なんかムカつくんだよなアイツ」
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