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深夜の大学構内の化学実験室。
実験器具をセットし終わり一息ついても全然気は晴れなかった。
修論の期限が迫ってきたところでそれまで順調に進んでいた実験が、まるで袋小路の中にハマってしまったかのように停滞してしまっていた。
一日で終わると思った実験が一週間かけても想定した結果にならず、実験ノートには失敗の条件が積み重なっている。
「なあ、飛鳥。ひとつ質問なんだが」
私の実験の様子を見守っていた狩野君が唐突にそんな言葉を投げかけてきた。修士論文に追い込まれてるのはお互いさまで、狩野君の目の下にはくっきりとしたクマが刻まれている。メイクで隠してるとはいえ、私も似たり寄ったりの状態だろうけど。
実験室で羽織っている白衣もお互いにだいぶくたびれてしまっていた。
「何かしら?」
返事をするのに少し息苦しさを感じる。狩野君とは学部生で研究室に所属した時から共同研究のような形で研究に取り組んできた。私が化学物質の合成担当で、狩野君がその物質の活用部分を担当している。
つまり、私の研究が遅れるほど、狩野君の研究も遅れていく。そのことを問い詰められるのではと思うと指先が微かに震えた。
「エアポケットって知ってるか?」
しかし、狩野君から飛んできたのは予想から斜め上の研究とはまるで関係しなさそうな質問だった。ほっと息をつきつつ、これはこれでわけがわからないのだけど。
「1:飛行機の急降下の原因となる晴天乱気流、2:空白期間のこと、3:沈没船に生まれる空気だまり。どれのこと?」
とりあえず頭の中に入っているエアポケットを列挙してみると、狩野君はこくりと頷いてから指を三本立てた。
「今回は船に関するエアポケットについてだ。ちょっとした思考実験を行う」
本当に実験とは全く関係ない話のようで肩の力を抜く。修論の締め切りは着実に冷たい足音とともに近づいてきているのだけど、とにもかくにも私の実験が上手くいかなければ執筆は進まない。実験が終わるまでのつかの間の自由時間を狩野君は雑談をすることに決めたらしい。
まあ、狩野君は思考が常識とかけ離れているところがあるから、3年間一緒にいても未だに何を考えてるかよくわからない。一見理屈っぽく見えて、実際は更に別次元に生きてるということを、同じ研究室に所属されてからことあるごとにまざまざと思い知らされてきた。
「まず前提条件として、俺と飛鳥が乗っていたクルーザーが転覆するものとする」
淡々と語る狩野君の言葉に思わず吹き出しかけた。
「ありえないわ」
「なぜだ」
「私が狩野君と二人でクルージングするってシチュエーションがまずありえない。だから、その前提条件はありえないの」
3年間、研究室でペアとして研究を続けてきたけど、一度大学の外に出れば私と狩野君の接点はほとんどない。それなのに、狩野君と二人で優雅にクルージングとかっていう発想がまずありえないし、どうせ狩野君は海水を採取して実験とか始めるのがオチだ。
「あくまで思考実験のようなものだ」
「現実にはありえない仮定で実験しても、それは何の役にも立たないんじゃないの?」
ほう、と狩野君は腕を組み、どこか斜に構えるような態度で微かに口角をあげる。
「本当にそうだろうか」
「どういう意味?」
「『ありえない』などと可能性を切り捨てた時点で、人類の発展は止まってしまうのではないか?」
狩野君の言葉に思わず口ごもってしまう。時に実験結果を検証するときには、常識ではありえないと思えるような仮説も丁寧に突き詰めていくこともあるし、そうした作業が新しい発想に繋がることもある。
いや、よく分からない思考実験に対してそんなこと言われたって詭弁でしかないはずだけど、それを大真面目に指摘するのもバカらしい気がする。どのみち実験が終わるまで手持無沙汰なのは私も同じだった。
「わかったわよ。それで、転覆してどうなるの?」
「船室内に取り残されて自力での脱出は不可能。幸いクルーザーが完全に沈没することはなさそうだが、船室に残された空気だまり――エアポケットには二人で2.5日分の酸素しか残されていない」
思考実験とはわかっていても絶望的な状況だった。時折、転覆した船内から奇跡の生還というニュースもあるけど、それは滅多に起きないから奇跡でありニュースになる。
そんなところに閉じ込められるというのは、想像しただけで息が苦しくなってくる。
「救助が到着するのに要する時間は類似事例から考えると2~3日後。幸い食料や寒さの問題はどうにかなりそうで、目下の課題はエアポケットに残された酸素だ。さあ、飛鳥ならどうする?」
「……カルネアデスの板みたいなものね」
緊急避難の法令的な解釈についての例にもしばしば引用される古代ギリシアの思考実験。難破した船から脱出した男が板切れにすがりついていると、そこにもう一人が同じ板につかまろうとやってくる。しかし、その板には二人を支えるだけの浮力はない。カルネアデスの板では初めに板を掴んでいた男が後から来た者を水死させて一命をとりとめるが、殺人罪で裁判にかけられるというもの。
狩野君の話の例では、船に残された酸素の残量の問題で、どちらかが確実に救助まで生き延びるにはどちらかが犠牲にならなければならない――のだけど。
「普通、そういう思考実験って具体的な人物名を出さないものじゃない? なんで登場人物に無駄にリアリティを出すのよ」
「適当な人物を仮定したら、答えも適当になる恐れがあるからな」
そうかもしれないけど、実際の――それも目の前にいる相手との極限状態を付きつけてくるのは趣味が悪い。狩野君相手だからまだしも、普通の相手に対してだったらその時点で「相手を沈める」みたいな選択は選べなくなるだろう。
真面目に考えるのもバカバカしい気がしたけど、それでも実験という言葉に引きずられてかつい思考の海に沈んでいく。
その極限状態で何を判断根拠にすればいいだろう。生き残った後の人類への貢献度合い? 救助に時間がかかった場合に生存可能性が高い方? あるいはじゃんけんでもして運を天に任せるか――考えれば考えるほど答えが見えなくなって、段々気分が悪くなってきたような気がした。
所詮思考実験だとわかってるのに、どうしてだろう。目の前で腕を組んだままの狩野君は表情一つ変えずに私の答えを待っている。いつもそうだ。狩野君には答えが見えているような時だって、私が応えを導き出すのをどれだけだって待ち続ける。
今日みたいなわけのわからない思考実験をふっかけてくることも珍しくないような理解しがたい相手だけど、そんな狩野君だから3年間ペアとして研究を続けてこられたし、それなりの成果もあげられてきた。
ああ、そうか。
私は気にくわないんだ。どちらかが助かるためにはどちらかが犠牲になるしかないという状況が。
それなら、私が選ぶべき選択は。
「何もしないわ」
私が出した答えに狩野君は表情を変えずに片眉だけを小さく上げる。
「救助が二日で来れば二人とも助かるんだし、酸素の消費量を減らす手法だって幾つもある。私は自分が犠牲になるのも、狩野君が私の為に犠牲になるのもクソくらえって思う。だから、私はギリギリの瞬間まで奇跡を信じて粘り続ける」
奇跡なんて非科学的かもしれないけど、万事を尽くした後に状況を変えてくれるのは奇跡としか言いようがない偶然だったりする。
狩野君が一瞬目を見開いたように見えたけど、すぐに真顔に戻って私の顔をじっと見る。だけどそれは長くは続かなくて、くっくっと堪えるようにしながら笑い声を漏らし始めた。
「その答えは――面白いな」
狩野君の言葉は少し予想外だった。正解でも間違いでもなく、面白いという言葉。
虚を突かれたような気がしつつも、上から目線の様に評価して笑う狩野君の姿になんだか腹が立ってきた。
「面白いって何よ。じゃあ、狩野君ならどうするの?」
「ん、俺か?」
狩野君は笑いを堪えるようにしながら実験室の戸棚の引き出しを開けると、その中に入っていた電極を取り出した。
「俺なら、海水を電気分解して酸素を取り出して、救助までの時間を稼ぐ」
「なにそれ。そんなの反則じゃん」
「前提条件は二人で乗っていたクルーザーが転覆したというだけで、所持品の指定などはないからな。大体、俺がクルーザーに乗ったら海水を使った実験でも始めるに決まっているだろう」
狩野君ならクルーズそっちのけで実験するだろうって確信があったけど、それを認めるのも癪なので頷くことはしない。
だけど、そんなの手段がありなら気分が悪くなりながらも一生懸命考えた私は何だったんだろう。
それはともかく、狩野君は一つ見落としをしている。
「というか、海水を電気分解なんかしたら塩素ガスが発生して大変なことになるんですけど」
塩素ガスは「混ぜるな危険」な洗剤などを混ぜたときに発生する毒性のガスで、海水を単純に電気分解すると同じものが発生してしまう。極めて密閉されたエアポケットの中でそんなガスを発生させたらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
狩野君らしくない見落とし――と思ったら、狩野君は待ってましたとばかりに口角をあげる。
「最近は塩素ガスを発生させない触媒などの研究も進んでいる。今度論文を貸してやろうか?」
「知ってるからいい。二酸化マンガンを使うんでしょ?」
私の答えに狩野君は満足そうに頷く。というか、会話が脱線しすぎててもはやよくわからない。でも、一番よくわからないのは狩野君と対等なやりとりができていることをちょっとだけ嬉しいなんて感じてしまう自分の頭だ。
「それで、何で私は急にわけのわからない思考実験に付き合わされたわけ?」
「思考実験に意味など求めるな――と言いたいところだが」
狩野君は無造作に手を伸ばして私の目の前にあった実験ノートを手に取る。そこにはここ一週間の失敗の記録が無機質に積み重ねられている。
「乗りかけた舟だ。お前はエアポケットに閉じ込められたとしても最後まであきらめないつもりらしいし、それなら俺も最後まで付き合うさ」
思わず狩野君の顔をじっと見てしまう。どうやら狩野君は私のことを励ましてくれているらしい。転覆した船の思考実験とは、励まし方がいささかアクロバティックな気もするけど。
それでも。私には狩野君に励ましてもらえるほどの価値があるのか自信がない。狩野君とペアを組む相手が私寄りもっと優秀だったら、狩野君の研究はもっと先に進んでいたかもしれない。
「舟は舟でも、呉越同舟かもよ」
「意見の対立が無ければ新たな発見から遠ざかることもある。研究においては呉越同舟万歳だ」
私の想いを知ってか知らずか、狩野君は淡々答えながらパラパラとノートを捲ると、一つ息をついてノートを私に返す。
「狩野君が乗りかけてる舟は泥船かもしれないのよ」
「泥だって上手くやればセラミックスの原料になる。そしてセラミックスは舟のコーティングとして使われる。つまり、現代科学の力があれば泥船だって立派な船になりうるわけだ」
それはただの強引な屁理屈だとわかっているのに、得意げに語る狩野君の顔を見ているとそんなものかもしれないと受け入れてしまう。
「それで、そんなオンボロ船に乗って狩野君はどこに行きたいのかしら」
「そんなの、決まってるだろ」
力強く笑う狩野君の顔に、少しだけドキリとした。
「研究者の俺たちが目指すのは誰も見たことがない新しい大地だ。俺とお前ならそこまで到達できると確信してる」
白衣のポケットに手を突っ込んで狩野君は不敵な表情を作った。
本当に不思議なんだけど、その顔をみていると失敗続きで無くしかけていた自信がどこからか湧き上がってくる気がする。
卑屈になってきた心にふっと光が差し込んできたような不思議な感覚。
「あの、さ。狩野君――」
――ピピピピピ
「終わったようだな」
タイマーの音に狩野君の声。パッと我に返ったようにコクコクと頷く。え、今、私は何を言おうとしていたんだろう。
狩野君にばれない様に深呼吸をして息を整える。とにかく、今は実験結果の確認だ。
「上手くいってますように……」
祈りながらセットしていた実験器具を慎重に取り出す。
本来なら白く濁っているはずの液体は、透明のまま変化していなかった。
途端に息が苦しくなってくる。すっと気が遠くなるような感じ。
「あっ……」
もしかしたら今回はと期待していた分、落胆も大きい。胸の奥から溢れてきたため息を堪える事無く吐き出しながら、実験ノートを取り出して失敗事例を一つ追加する。
相変わらず息が苦しい。まるでいつ助けが来るかもわからないエアポケットの中にでもいるような。
どれだけ狩野君が背中を押してくれたとしても、肝心の実験が袋小路の中に入っていることは変わりない。期待してくれている狩野君に対しても申し訳なかった。やっぱり私には狩野君に励ましてもらう資格なんて――
――袋小路、ポケット。
頭の中にチリリと電流が走る感覚。これまで実験ノートに積み上げてきた内容とさっきまでの狩野君との話がザワザワと結びついていく。その感覚に従って深く深く思考を沈めていく。
――エアポケット、限られた酸素。電気分解、二酸化マンガン。
不意に目の前にパッと光が広がった感じがした。頭の中で必要な思い描いた物質までつながる経路が次々と導かれていく。これまでの失敗の山と、ちょっとした新しいアイデアが組み合わさって、暗い船底に一筋の光が差し込んできた感じ。
「行けるかもしれない」
口から零れだした呟きとともに勝手に体が動いていた。必要な材料は全て実験室にあるはずだ。既に日付は変わっていたけど、この閃きが頭の中にいる間に実際に試してしまいたい。頭の中に浮かび上がった合成の道筋を示す回路がジリジリと私を急かす。
「今から試すのか?」
「うん。なんだか今度こそ上手くいく気がする」
狩野君が嫌がりそうな感覚的な答え。だけど、狩野君はふっと表情を崩すとだらっと着ていた白衣を羽織り直した。
「何してんの?」
「手伝う準備以外に何かあると思うか?」
「え、でも。そんなの悪いよ」
もう日付は変わっているけど、狩野君は大学から徒歩圏内のアパートに住んでいるから今からでも帰ることができる。今からだと大学に残るしかない私と違って実験に付き合い続ける必要ないはずだけど。
思わず狩野君の顔をまじまじと見てしまう。狩野君はどこか居心地が悪そうになおしたばかりの白衣のポケットに無造作に手を突っ込んだ。
「面白そうなことが起こりそうなのに、帰るなんて勿体ないことできるか」
私から視線を逸らす狩野君の言いぐさは相変わらずで、ホッとすると同時にちょっとした寂しさが混ざった不思議なモヤモヤに包まれる。
「それに、飛鳥の実験が終わらないと俺の修論まで危なくなるからな」
「うっ、頑張ります……」
首をすくめながら、思いついた実験の内容と手順をノートに書き出しながら細部を狩野君と詰めていく。
実験の手順を改めてみると、狩野君の思考実験の要素がふんだんに出てきた。
あれは本当にただの思考実験だったんだろうか。もしかしたら狩野君なりにヒントを出してくれたのだとしたら。その横顔は不敵に笑っているだけでその奥底を読み取ることはできそうにない。
「どうした?」
狩野君が不思議そうな顔で私を見る。正面から狩野君に聞いてみても、多分答えてはくれないだろう。その真相はポケットの中に入れたままの狩野君の手と同じように見えないままだ。
一つ息をつく。今は見えなくてもいい。だけど、最後にはその手を引っ張り出してやりたくなった。
「修論終わったら、卒業旅行でも行かない?」
狩野君は私の提案に一瞬虚を付かれたように目を見開くけど、すぐに目を閉じて微かに口角をあげる。
「そうだな。どこか行きたいところでもあるのか?」
「海……とかどうかな?」
特に海が好きというわけじゃないけど、エアポケットの話をしたせいか何となくキラキラ光る眩しい海を見に行きたかった。
「海か。いいな。船に乗らないなら、だが」
「船? なんで?」
「そりゃあ、俺は船酔いするし、泳げないからな」
何故か狩野君は自信満々にニッと笑う。
いや。いやいやいや。
「さっきの思考実験、やっぱりありえないじゃん!」
「魅力的な実験があれば、無理を推して船に乗る可能性はあるぞ」
「電気分解して酸素つくる前に溺れちゃうじゃん」
狩野君が珍しく押し黙る。半眼でじとっと私の顔を見た後、やれやれといった感じで息をついた。
「ほら、口よりも先に手を動かせ」
「誤魔化したっ」
「修論を書き上げなければ、そもそも旅行以前の問題だぞ」
「急にそんな正論押し付けなくても……」
とはいえ、狩野君の言葉は正論には違いないので大人しく手を動かし始める。
今まで何度も繰り返してきたのに、こうして並んで実験をしてみると改めて馴染みのよさを実感する。それと同時に、こんな時間もあと少ししか残ってないということも。実感した途端、ひりつくような焦燥感にかられていく。
「ね、狩野君」
「ん?」
「楽しみだね。旅行」
焦りを隠すように笑みを作ってみせる。
「まずは実験だ」
そう答える狩野君の口元はワクワクするように笑っていた。
そうだ。こうやって未知の世界に挑むワクワクを何度も繰り返してきた。上手くいかない時の方がずっと多いのだけど、それでも、誰も知らなかったことを見つける喜びは苦労を全て押し流してくれた。
それは多分、一人じゃなくて二人で色々な課題に向き合ってくることができたからだと思う。今回も誰も見たことの無い世界の扉を開くことは出来るだろうか。
「大丈夫」
狩野君の手がぶっきらぼうに肩に置かれた。
「きっと上手くいく」
自信に満ち溢れた狩野君の声に背中を押される。
エアポケットの中のような息苦しさは、もう感じなかった。
「うん。そうだね」
――外にはきっと、光が満ち溢れてる。
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