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十七時三十分。TO DOリストを確認する。
漏れがないかひとつひとつチェックを入れ、残っているタスクがあれば取り掛かる。三十分で終わらないタスクならば下準備だけをして明日に回す。残っているものがなければ明日のリストを作り、急ぎではない案件の整理。
あとは些末な社内メールに返信をすれば本日のタスクは終了だ。予定通りに物事が進むと気持ち良い。お疲れ様です、と定型文を打ち始めたところで「坂井くん」と背後から声を掛けられる。
「ごめん、この見積もり明日までなんだけど最終確認お願いできないかな」
と、自分のPC画面を指すのは一つ年上の同僚。はあ、と坂井は相手に聞こえるのも憚らず溜息をつく。そして口を開き、
「どうして就業時間ギリギリに頼むんですか。そして明日締切をなぜ今確認するんですか? もっと計画性を持って取り組んだほうが良いと思いますが」
と言葉で追撃をした。場の空気が凍る。
「ご、ごめん」
「やれと言われたからにはやりますが。共有フォルダにありますか」
「あ、うん。見積のフォルダに……」
「十五分で終わらせます」
後はもうそちらに背を向けて、作業に取り掛かる。計画的に物事を進められない同僚には呆れるが、いつまでも腹を立てている時間と労力がもっとも無駄だ。画面に素早く目を走らせながら、誤った数値や表記を直していく。
五分ほど作業してから気付いた。頭が痛い。
キーボードを打つ手を止めて、右手の親指と中指で左右のこめかみをギュッと指圧する。最近寝不足だったせいだろうか。生活習慣は乱れていないのだが、どうにもこのところ寝つきが悪い。
社会人として、体調管理は基本中の基本だ。情けない。一度目を固くつむって息を吸い、吐く。そして目を開けると同時に頭痛のことは意識の外に追いやる。再開。
再び数値と項目に目を走らせるが、全く情報が頭に入って来ない。はあ、と溜息をつく。鞄から小さいポーチを取り出すと、坂井は席を立った。
自社はオフィスビルの六階に位置しているが、八階がビル全体の休憩所になっている。坂井は普段あまり立ち寄ることがなかったが「静かに利用しましょう」とやっつけの張り紙がされたドアを開けると、中には誰もいなかった。
自販機でペットボトルのミルクティーを買い、喫煙室のガラス戸をくぐる。ポーチから煙草――の前に痛み止めの錠剤をひとつ取り出して、ミルクティーで流し込む。それから甘さの残る口に煙草をくわえて火をつけた。
ゆっくりと煙を体にめぐらせる。もやもやしていたこめかみの痛みも、ついでに喉につかえていた苛立ちもすうっと霧散していくような気がするのが心地よい。ほんの一瞬の錯覚であるとは分かっているのだが、もう一口、二口と刹那の開放感に酔っているうちに短い一本の至福は終わってしまった。二本目に手を出すか否か、逡巡していると休憩室のドアが開く。
「坂井さん。珍しいですね」
声をかけてきたのはふたつ下の後輩、堤だった。新卒入社して半年といったところか。まだまだ新しいスーツが初々しい。営業なので経理や人事を担当している坂井と直接の関わりはないが、何やらできるやつだとか評判が良いのを知っているくらいには社内で話題になっている男だ。
「お隣失礼しまっす」
に、と歯を見せて笑うと胸ポケットから慣れた風に電子タバコを取り出す。
カチ、と火をつける音。くわえて、ふうっと吐き出す。だいぶ先輩である坂井のほうから何か話を振るべきなのだろう。仕事には慣れたか、何か困っていることはないか。無難な話題は思い浮かぶが、その後の会話を続ける労力が億劫でなかなか喉をついて出てこない。実のある話以外は苦手だ。
「煙草吸うんですね。知りませんでした」
逡巡していれば、堤のほうから話を振ってくる。喫煙ブースの手すりに並んで腰をもたれさせ、横目だけで相手をすいと見る。
「たまにね。きみたち営業ほど頻繁じゃないよ」
言ってから、嫌味のようになってしまったと気が付いた。全くもってそんなつもりはなかったのだが。
いくつも年上、しかも部署違いの坂井にそんなことを言われて戸惑ってはいないか。反応を窺うと堤はぱっと人好きのする笑みを浮かべた。
「そうですね。営業は息抜き大事ですから。この半年で学びました」
に、と歯を見せて笑う。笑うと八重歯のせいか幼く見えた。なるほど、これは営業職として期待されるわけだ。この短い時間で底抜けの人当りの良さが窺える。嫌味がなく素直な性格なのだろう。なんとなく、無意識に視線が彼をじっと見まわした。
すとんと落ちたまっすぐの短い黒髪。全体的にやや小柄で手首が細い。そして童顔で目が大きい。彼を見ていると、余計なことを思い出す。吸い終わって時間のたった一本を、灰皿にぎゅっと押し付ける。
「先に失礼するよ。きみもあまり遅くならないように」
もたれていた手すりから腰を上げる。
「あ、はい。なるべく早く戻ります」
「いや、休憩はしていい。帰るのがあまり遅くならないようにね。帰れるときは帰ったほうがいい。特に新人のうちは」
「……ありがとうございます」
背中で堤がにっと笑ったのが分かった。喫煙室を出る。胸ポケットから小ぶりの消臭ミストを取り出して雑にスーツに振りかけたら、首をひとつパキリと鳴らしてオフィスに戻った。
十八時五分。追加のタスクと雑務を終え、PCの電源を落とす。先程仕事を振ってきた加藤には終わった旨を簡単に伝え、その流れでオフィスを出た。一階に降りて、エントランスの自動ドアを一歩出たところでふと鞄の軽さに気づく。弁当箱を洗って給湯室に置きっぱなしだ。オフィスは六階。取りに戻るに億劫な距離ではない。Uターンして、降りたばかりのエレベーターに乗り込んだ。
給湯室はエレベーターを降りて、オフィスとは反対側にある。さっと取ってすぐに戻ろうとしたとき「これ坂井さんのじゃない?」と話し声がしたので思わず足を止めた。
「忘れ物かな。珍しいですね」
女性の声がふたつ。同期の同僚と今年入ったばかりの新入社員らしい。
「毎日お弁当作ってくるのマメだよね」
「え、彼女さんとかじゃないんですか」
「いや、前に自分で作ってるって言ってたよ」
「へえ。かっこよくて、仕事もできて、お弁当も作っちゃうなんてすごいですね」
「確かに顔はかっこいいし優秀なんだろうけどさあ、性格きつすぎるよ。今日の加藤さんだって可哀想」
「ああ……」
「ギリギリに頼むほうも悪いけどさ、言い方があるよね。男としてはいいけど、人としてどうなのって感じ」
「うーん、私は良いと思いますけどね」
「え、吉田あんたまさか狙ってんの?」
「まさか! 傍から見てて素敵とは思いますけど、観賞用っていうか、絶対彼女さんいるだろうし」
「いないいない! あれと付き合える人なんかいないって」
待っているつもりだったが、話が永遠に途切れないので現場に踏み込む。丁寧に足音を鳴らしてやったので、中にいたふたりは坂井に気づいてさっと顔色を変えた。
「あ、坂井、くん。お疲れ様」
「忘れ物をしました。回収してもよろしいですか」
「う、うん」
ふたりの間を通り抜けて、洗いかごの弁当箱を回収。水は十分に切れているのでそのまま鞄に仕舞って踵を返した。そして去り際に、背中から言葉を投げかける。
「ちなみに今は交際している相手はいません。一か月前に別れましたので。ですが下世話な噂で盛り上がる人はこちらからもお断りです」
相手からのリアクションを待たずにその場を去る。
くだらない。何もかもくだらない。仕事ができない同僚も、陰で人の噂話に興じる女たちも、すぐに色眼鏡で人を見る世間も。
歩いて五分のところにある契約駐車場まで今日は三分でたどり着く。やや乱暴にドアを開け、閉め、だけれどゆっくりと走り出す。明日出勤してからのタスクを脳内で整理しているうちに余計な雑念はどこかへ消え失せ、自宅マンションにたどり着いていた。
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