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十七時四十五分。やり忘れたタスクがひとつあることに気づく。坂井はデスクでまっすぐに背筋を伸ばした美しい姿勢のまま、静かに動揺した。今日すべきことがこの時間に終わっていないなど、坂井にとっては珍しいにも程がある事態だった。
薄っすらと痛む気がするこめかみに指をあて、息を吸い、吐く。大丈夫だ。今日すべきことであるには間違いないが、それは今日しておいたほうが明日が楽になるからであって、今日がデッドラインというわけではない。
コーヒーを飲むために顔を上に上げると、昨日やり取りをした加藤が目に入る。右肩と頬で電話を挟みながら、忙しくキーボードを打っている。今日も何かに追われているようだ。
――もっと計画性を持って取り組んだほうが良いと思いますが。
投げつけた自分の言葉が、今になって背中を刺す。三十分もあれば終わる仕事だ。もう一度こめかみを押さえてから、例のファイルを開いた。
「……お先失礼します」
昨日給湯室で噂話をしていた女性のうちのひとりが、気まずそうに横を通り過ぎるのに「お疲れ様です」と声だけでおざなりに返事をした。手も止めなければ目もくれない。そんな暇がない。
普段ならば三十分で終わる量だった。十八時二十分。まだ終わりそうにない。あとは数式を組んだセルに実数値を入れていき、それで計画段階との誤差が計算されるのでその数値を報告。メールの文面を打っていた指先が引き攣る。頭が痛い。いよいよ無視できない痛みになっていた。鞄からポーチを取り出す。指先で中身を確認して、はあ、と溜息が出た。煙草と一緒に入れてある頭痛薬は昨日のが最後の一錠だった。今日はとことんそういう日らしい。隣のビルの一階に薬局が入っているが、買いに行くよりも仕事を終えるほうが早い。諦めて画面に再度差し向ったとき「坂井さん」という声と同時に背後から腕が伸びてくる。
とん、と置かれた指の下。小さい錠剤のシートだ。斜め後ろを振り返る。気の利く後輩、堤だった。
「残業めずらしいですね。もしかして頭痛いですか?」
「……気のせいじゃないかな」
「気のせいならそれで良いです。もしよければ、これどうぞ」
堤は幼い顔でにこりと笑って、錠剤を置いただけでその場を離れてしまった。自席に戻る小柄な背中を何となく目線で追う。きっと、何の他意もない。彼は誰にでもそうなのだろう。今も隣の席の、彼にとっては先輩にあたる女性に何か飴玉のようなものを手渡していた。
坂井は錠剤を手に取ると、ぷち、とシートから一錠取り出してコーヒーで飲み込んだ。即効性があるわけでもあるまいに、嚥下した喉からすうっと清涼感が込み上げてくる気がする。気のせいだ。苦笑を噛み殺しながら、作業を再開した。
ひとりふたりとオフィスから人が減っていく。十八時半を超す頃には堤を含む営業部がふたりと、坂井、そしてこのオフィス全体を仕切る部長のみになった。各々がキーボードを叩く音と、時折営業のふたりが何やら会話する声、あとは天井のエアコンが駆動する音だけが静かに響き渡る。
「この件、先方に確認済み?」
「はい。賀川さんに午前中電話で」
「手回し速いな。もしかしてプレゼン資料もできてる?」
「あー、そっちはちょっと時間かかりますね。三分の一くらいはできてますけど」
「いいよ、週明けまでで。もう手つけてただけで驚きなんだけど。堤は本当に気が回るな」
「いやいや、仕事遅いんで早めに着手してるだけですよ。資料もちょっと怪しいところあるんで、直してもらえたら助かります」
「オッケー。完成したらちょうだい」
そんなやり取りが聞こえてくる。入社して半年で、自主的に動けているのは正直すごい。賞賛に値する。とはいえ本人は謙虚であまり評価されることを望んでいないようであるし、何よりそれをするのは坂井ではない。己のタスクに集中して画面を睨む。
十八時三十五分。最後のメールを送信し終わって、坂井の業務が終わる。席を立って部長のところへ行き「頼まれていた収支報告メールで送りました」と報告。もうすぐ五十代に手が届くとは思えないほど若く見える部長は坂井を見上げてにやっと笑った。
「先月のイベントのやつ?」
「はい」
「なんだ、もう終わったの。明日でいいのに」
「明日に回すと明日の業務が圧迫されるので」
踵を返そうとした坂井の背に「ちょっと」と追撃。
「こんな時間までいるの珍しいじゃん。たまには飲みにでも行かないか」
遠慮します、と言いかけて、ふと昨夜のことが脳裏をよぎる。まっすぐ帰宅しても時間を持て余すことは明白だ。しかし、部長のことは嫌いではないが上司を酒を飲むくらいなら。
「……いえ、食事の支度をしてきてしまったので、また今度の機会に」
「そうか。じゃ、そのうちに」
と片手を上げてもういっていいと促される。自席に戻るには営業部ふたりのデスクの前を通る。坂井はそちらを見なかったが、堤が「お疲れ様でーす」と声をかけてきた。
「堤くん、薬ありがとう。おかげではかどった」
「いえいえぇ。困っているときはお互い様ですから」
へら、と笑う堤の隣でもうひとりの営業社員がにやにやしだす。
「そんなこと言って、お前困ることないだろ」
「まさか。毎日困ってますよー。分からないことばっかりです」
よくも、まあ。その場にもっともふさわしい言葉や振る舞いがぽんぽん出てくるものだ。坂井は素直に感心した。それは、坂井には備わっていない――備えようとしなかったスキルだった。
「それじゃあ、お先に。君たちもあまり無理せず」
「ありがとうございます。もう帰りますよ」
「お疲れーっす」
PCを落とし、デスクの上を簡単に整えて、鞄を片手に立ち上がる。もう、頭は痛くなかった。
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