39人が本棚に入れています
本棚に追加
ビールを瓶で一本。お通しはポテトサラダで、茄子の揚げ浸しと厚焼き玉子がカウンターに並ぶ。もう少し腹に溜まるものがほしい。メニューを開く。
週末でもない駅中の居酒屋は、それでもそれなりに混みあっている。とはいえカウンターに座っているのは坂井ともうひとりだけで、多くは複数人でテーブルにかけていた。そのうちのひと組、坂井の斜め後ろのテーブルがやや盛り上がりすぎていて他の客から眉をしかめられていたが、坂井はさほど気にならない。元より他人のことがあまり気にならない性質であった。
「ご注文ですか」
カウンターの向こうから店員が尋ねてくる。特に決めていなかったが、開いていたページにある焼き餃子がおいしそうだ。それを一枚と、チーズ揚げをひとつ。惰性でグラスのビールを飲みほして、惰性でつぐ。
あはは、と一際高い笑い声が斜め後ろのテーブルから上がった。酒が入ると声が大きくなるのは仕方ない。気にせず茄子をつまむ。
同棲をしているときは外食も少なかった。ましてや、酒を飲むことなど。連れ立って出かけるときはいつも車であったし、同居人はやや胃腸が弱かったためにそういう機会も随分少なかった。
思えば。学生時代から付き合い始め、就職してすぐに同棲を始めたので、一人暮らしというものがそもそも今初めてなのだ。いい歳をしてなんだか可笑しい。苦笑をビールで流し込んでいると、ド、と背後で笑い声が上がる。
「ショウちゃん、やばすぎ」
「いい企業入ってビックリしたけど、変わんねえなあ」
「ほんと、見た目だけすっかりサラリーマンになりやがって」
そんな会話が漏れ聞こえてくる。漏れるも何も全力で店中に響き渡っているのだが。それにしても学生の集団かと思っていたら社会人か。平日から元気なことだ。
何にせよ。集団で騒がしい客がいようが、カウンターで飲んでいたもうひとりが舌打ちをして会計を済ませようが、坂井には関係ない。中身が半分ほどになった瓶を傾ける。そのとき、どん、と背に衝撃があった。
勢いでビールがカウンターにぶちまけられる。食べ物にかからなかったのは不幸中の幸いだが、テーブルが受け止めきれなかった分は坂井の左腿にしたしたと零れかかっていた。
「あーっと、すみません!」
ぶつかってきたのは例の集団のひとりのようだ。手洗いか何かのために席を立ちあがったのだろうか。わずかに振り返って相手を確認する。会話を聞く限り社会人のはずだったが、学生にしたってだいぶラフな、パーカーにジーンズという出で立ちの若い大柄な男。自分のしたことを把握しきれていないのか、テーブルの惨状とは裏腹にへらへら笑っている。
「何やってんだよ、よーちん!」
後ろの連中がゲラゲラ笑う。赤の他人に迷惑をかけておいて笑うところではないだろう。全く神経が理解できない。店員が「すみません」とテーブルを拭いてくれるが、謝るべきは店員ではない。
「よーちん、こぼしたビールお兄さんにご馳走して差し上げろって。すみませーん、ジョッキひとつ、あちらのお客さまに」
あくまでふざけた物言いに、また笑い声があがる。さすがに文句のひとつでも言うかと、椅子を引いて振り返った坂井に近づいてくるものがある。例の集団のひとりのようだったが、彼だけはスーツを着崩した格好だった。声から、ビールを注文した輩のようだ。だがそんなことよりも、どう見ても彼は。
「ごめんね、おにいさん。服だいじょうぶ」
と言いながらおしぼりを坂井の太腿にあてる。じんわりと温かい。
「これ高いやつ? クリーニング代とかいる?」
「いや。量販店の洗濯できる服だから不要だよ。お気遣いありがとう……堤くん」
ビールの染みを抜いてくれていた手が止まる。男はゆっくりとぎこちない動きで顔を上げた。酒が回っているにも関わらず真っ青な顔は、つい数十分前にオフィスで見たものと同じだった。
「さ、坂井さん……」
ぎこちない笑みのまま、堤の顔が固まる。ビールお待ち、と空気を読まない店員が坂井の前にジョッキを置いた。
最初のコメントを投稿しよう!